レッテル剥がし
高2 あうそな(ausona)
2025年4月3日
現在、子供の問題が多く提起される背景には、子供がわからない、見えないという不安感がある。それに対し専門家による知識が提示されるが、それは見えない制度として強制され、知識の強者と弱者としての非対称な関係を生む。知識の流通が支配する社会では、知識にアクセスできない者が沈黙させられていく。子供の問題とは、こうした構造によってつくりだされる問題でもある。子供を本来の姿で捉えられない社会のあり方に問題がある。
その原因は第1に、大人があらゆる分野の専門知識を駆使し、子供を分類可能な対象として見ているためだ。効率的に人を管理する社会の影響は、会社や企業だけでなく子供達の教育の場にも及んでいる。学校現場でも、発達障害や問題行動などといった専門用語が頻繁に使われ、子供たちはすぐにカテゴライズされてしまう。私の妹は現在不登校だが、彼女なりに彼女らしい生活や進路を模索しながらも充実して過ごせているようだ。それにもかかわらず、「学校には来てほしい」と形式的な言葉をかける教師や、感情のこもらない対応をする大人もいる。そうした大人たちは妹の気持ちや葛藤に寄り添おうとせず、単に通学という枠に当てはめようとしているように感じる。これは妹に限らず全国の不登校生にも共通する課題だろう。不登校という事実だけで、子供達の気持ちや個々の事情勉強をしていない、怠けだといった偏見やレッテルを貼られ、ひとくくりにされてしまう。つまり、専門知識の過度な応用は、時に大人の勝手で一方的な解釈へつながってしまうことがある。そしてそれは子供一人一人の背景や感情を無視し、思いやりの欠如という形で表れている。
もうひとつの原因は、日本社会における、子供は未熟で導かれるべき存在という昔からの既成概念だ。子供を対等に見ていない、日本は欧米と比較しても尚更、その傾向は見受けられるだろう。日本では多くの場合、大人に指示されることの方が正しいとされ、その中で育った子どもたちは、自分の考えを口にすることに躊躇いを覚える。それが日本人と欧米人の大きな違いである個人の自主性や積極性の有無にもつながっていると推測する。また子供が備え持っている創造性や個性を押し殺してしまうことさえあるだろう。子供の未完成さの中にこそ、大人が学ぶべきである柔軟な発想や感受性、そしておおらかな心があるのではないか。大人がその事実に気づき、子どもを共に生きる存在だと認識した時初めて、教育が成立する。
確かに、専門知識は現状をつぶさに分析し、状態の把握に大いに貢献している。特に子供の発達や行動を理解し、適切な支援に繋げるためには欠かせない。しかし、その専門知識は子供を一定の枠組みに当てはめてしまい、本来の姿が見えなくなる危険性があることを十分に理解しなければならない。私はこれから、自分を含めた一人一人の個性を理解尊重し、真の共生社会の担い手の一人になりたい。