牛のお通りで電車が止まるを読んで
   小3 あけいと(akeito)  2025年5月3日

 一番面白かったことは、牛が電車の線路内で寝そべっているという事である。牛を神様の仮の姿とし、牛がどくまで気長に待つというのは理解出来なくもないが、何故線路内に牛が立ち入らないための工夫をしないのか、僕には理解できなかった。例えば牛が侵入できないように柵を作れば、牛が傷つくことも電車が止まる必要もないのに、何故インドの人は円滑な生活を送るための工夫をしないのだろうか。

 そもそもどうして牛が神様の仮の姿なのだろうか。僕のイメージする神様は、空の上にいて人の姿をしているけれど、目には見えないものである。

「何で牛が神様なんだろうね。」

そう母に言うと、母は興味深い話をしてくれた。

「敬ちゃんは八百万の神って言葉を知ってる?」

母によると、インドの人はヒンズー教という宗教を信仰していて、ヒンズー教では牛が神様であり、インドの人々は牛を食べないという事だった。一方、日本には八百万の神という考え方があり、全てのものに神様が宿っているから、物を丁寧に大切に使い、お米粒一つ残さずに感謝して食べなければならないと考えられていたという事だった。神様だから食べてはいけないというインドと、神様だから感謝して大切に食べようという日本。何が違うとこんなにも考え方が異なるものなのかと驚いた。

 時間に対する考え方も日本とインドでは全く異なるように感じる。日本人は時間を気にして生活する。僕も毎日母から、

「遅刻するでしょ!早く起きなさい!」

と大声で起こされる。学校に行けば皆決められた時間までに登校して来るし、チャイムに合わせて行動する。これが僕らの当たり前だ。もしも電車やバスが遅れて遅刻しそうになったら気が気でない。しかし、台湾で暮らしていた母は、

「世界で日本程時間に厳しい国はないと思うよ。台湾のバスはいつ来るか分からなかったし、待ち合わせ時間にちゃんと来る台湾人はほとんどいなかったよ。」

と言った。

 日本人の僕が当たり前だと思っている事が世界の当たり前ではない事が分かった気がした。皆が自分のアイデンティティの中で生きているからこそ相手を理解する努力が必要だ。皆が自分と相手の違いを認め歩み寄ることが出来れば戦争もなくなるかもしれない。牛の話が世界平和を考えるきっかけになるとは思いもしなかった。