想像力とは
   高2 わてひ(watehi)  2025年5月3日

 心や意識の有無は生理的な構造や外的な反応では判定できず、むしろ「他者の内面を想像する力」によって成立する。他人の痛みを直接感じることは不可能であり、私たちは「彼の立場に立った私」を通してしか理解できない。それにもかかわらず、私たちはその想像を基に「彼が痛がっている」と判断し、共感する。この想像力が、人間同士を「仲間」としてつなぎ、心ある存在として認識させる根本的な力である。つまり、心とは客観的に存在するものではなく、他者との関わりと想像によって生じるものなのだ。この考え方は、災害や戦争といった極限状況において社会が「助け合い」か「奪い合い」かに分かれる理由にも通じる。奪い合う社会には、他者の内面に対する想像力が欠けている。では、なぜ今の私たちにはその想像力が失われつつあるのだろうか。

 第一の要因として、私たちが「心の教育」の伝統を忘れてしまったことが挙げられる。かつては家庭や地域、学校の中で、他者の気持ちを考えること、思いやることを自然に学ぶ文化があった。しかし近年、効率や成果を重視する風潮の中で、そうした教育が軽視されがちである。心を育てる営みは時間がかかり、目に見える成果として現れにくいからだ。だが、他者の苦しみを自分のものとして想像する力こそが、助け合う社会を築く基盤である。心の教育を回復しなければ、私たちはますます他者を「人」として感じられなくなってしまうだろう。

 また、第二の要因として想像力の欠如の背景には、豊かな社会における「使い捨て文化」の広がりがあるのではないか。物を大事にせず、壊れたらすぐに捨てるという習慣は、物だけでなく人との関係や心までも「消費」する感覚につながっている。かつて語り継がれた昔話『ももたろう』では、きびだんご一つで動物たちが心を通わせ、共に鬼退治へ向かう。そこには物や言葉にこめられた「気持ち」を受け取り、大切にする文化があった。しかし現代では、物も人も簡単に交換・排除できるものとして扱われがちである。そうした環境では、他者の気持ちや存在を想像する力が育ちにくい。物を大切にし、関係を育てる中でこそ「心を想像する力」は培われる。使い捨て文化がその土壌を失わせている今、私たちは改めて「もったいない」という感覚の意味を問い直す必要があるだろう。

 確かに、何を大事にするかという心の問題は、基本的には個人の価値観に属することだ。「人間とは、単体ではなく、集団なのだ」という名言がある。しかし、社会には共通の了解事項となっている文化がある。また、相手の心に対する想像力が、現代社会で本当に欠けてきているのだろうか。むしろ、情報化の進展により、私たちは以前より多くの人々の声や感情に触れる機会を得ている。SNSでは誰かの悲しみや喜びが即座に共有され、戦争や災害の現場から届く映像や証言に心を動かされることも多い。つまり、想像力そのものが衰えたわけではない。しかし逆説的に言えば、あまりに多くの「他者の心」に触れすぎて、私たちは一つ一つに深く共感する余裕を失っているのではないか。他者の痛みが「日常的なノイズ」と化してしまい、心が麻痺しているのである。想像力の欠如ではなく、想像力の「疲弊」が今の問題であり、それゆえ本当の共感や助け合いを実現するには、情報の量ではなく、想像の深さが問われているのだ。