想像力と暇な時間
高2 かずま(auyoto)
2025年5月4日
ロボットにも心とか意識といったものはあるのであろうか。うまそうに食事をしているロボットは、空腹を感じ、食欲を持っているのだろうか。歯医者の椅子の上でうめき声をあげているロボットは本当に痛がっているのだろうか。もし著者が長年ロボットと人間らしい付き合いを続けたならば、ロボットに対して感じている心や意識を想像するだろう。我々が他者の経験を想像しているつもりでも、実は想像しているのはその他者に成り代わった私自身なのである。我々に想像可能なのは、彼の立場にあるわれらの痛みであって、彼の痛みそのものではない。人が激痛でうずくまり冷や汗を流している。しかし、我々はその痛みを想像することしかできない。だというのに、我々は彼に対して心痛するのだ。しかし、現代ではそのような想像力を発揮する場面が非常に多いのに対し、想像力が足りなくなってきている場面が増えてきている。我々は、現代社会を生きるにしては、いささか想像力が足りなくなってきているのだ。
原因としては第一に、想像力を発揮するための時間が削られてきている点にある。現代社会ではいつも、人々がせわしなく、忙しく、てきぱきと物事をかたづけようとする。時間に追われた生活を送る人があまりにも多い。電車は分単位でスケジュールを組み、隙間時間があればなにかしら暇つぶしを探す。休日もなにかしら、暇な時間を作らずに動いている。そのような生活を送らなければいけないのが現代社会なのであろうか?いや、そうではない。別に我々は、そのような生活を送るよう強制されているわけでもないし、休日や休み時間にのんびりと暇を持て余しても問題ないのだ。にもかかわらず、現代人は何かしらの予定を定めなければならない。想像力は、暇を持て余してこそはぐくまれる。暇な時間にあれこれ妄想することが、想像力の活性化に一番重要だ。つまり、想像力が足りない原因はこの、暇がない生活にあると言える。
なぜ我々は、想像力を掻き立てるために重要な暇な時間を削ってまで、何かしらの予定を入れるのだろうか。これには、大きく分けて二つの理由がある。まず、娯楽の進化、そしてつぎに労働体系の変化があげられる。前者の娯楽の進化の説明は、例を挙げるのが最も手っ取り早い。それはスマホだ。現代社会に深く結びついているスマホ。いつでもどこでも気軽に、かつ手短にゲームをしたり、SNSを確認することができる。そういう意味では、ゲームやSNSが原因ともいえるだろうが、ここではどこでも携帯できるという点で、スマホが原因として書いておく。そしてもう一つ、労働形態の変化とは、簡単に言えば労働時間の長期化だ。人類が文明という物を作り始めてから、労働という物はどんどん過酷に、そして長期化していった。特に産業革命以降は、労働階級でも生存維持のため以外の労働を大々的に行っていくようになる。嗜好品を作ったり、それを運搬したり、様々な職業が生まれ、人々が豊かになっていくと同時に、自らの時間を大幅に削り、時には子供が学校にすら行かずに鉱山で働かされるケースもある。今は休憩時間などもあり、暇な時間が取れるようにはなっているが、このような長期的な労働も、想像力育成の障害の一つであろうと思う。これらばかりは、現代社会で生活をしていくためには必要不可欠ともいえるほど、社会に根付いている。スマホを持っていなかったり、労働をしていないような人間は、原始人や社会不適合者のレッテルを張られ、大衆から攻撃にさらされる可能性さえ秘めてさえいる。特に後者はそうであろう。しかし、我々は想像力をはぐくむ必要もある。我々は、時間を捻出する必要があるのだ。それは、きっと案外簡単なようで、難しいであろう。スマホを制限したり、自分の労働時間を削るのは難易度が高い。これは、もはや国家などの大規模な組織レベルとの協力で改善を推し進めていくべき次元である。特に労働環境の改善などは、まさに我々個人の手におえない代表例だろう。我々の範疇におさまらない、そういうレベルで我々は深刻な暇不足にあえいでいるのだ。我々でも与り知らぬところで。
第二の原因として、そもそも想像力の重要性が認識されていない点があげられると思う。今よりも数十年前では、個性というものを助長する教育など行われず、詰め込み教育などと言う、今見たら愚かしいにもほどがある教育体制であった。しかし、現代では違う。現代は子供の個性を尊重し、守ろうという方向に舵を切りつつあるのだ。だが、実際にその方針が広く行き渡っていると言えるのだろうか?はたして試験など、自分の苦手とする強化を学問といえる範囲まで突き詰めていくのは、本当に生徒の自主性に任せる範囲といえるのだろうか。前の段落でも語ったが、想像力は、暇な時間が必要だ。苦手なことに費やす時間が、はたして必要なのだろうか?それも想像力を養う暇な時間を犠牲にして。
我々が社会人として、人間として必要となるコミュニケーション能力にもかかわってくる想像力は、どう考えても必要不可欠なものだ。それならば学校側も、それらの重要性を確認し、それ相応の施策を施行するべきである。特に子供時代は、柔軟な発想がしやすい。もちろん、ゆとり教育などと言われた一方的な政策などではなく、本人の持ち味を生かし、それによって、従来、彼彼女らが苦手教科の克服に費やしてきた時間を暇な時間、つまり想像力の強化へと回すことができるのではないか。もちろん、学校側だけのものではない。ここで子供たちがゲームやSNS、読書などにすべてをつぎ込むようであれば本末転倒だろう。それこそ教育機関の出番だ。教育機関で、いかに想像力が必要なのかを、学生に発信していくべきだと思う。なぜ、どこで我々は発想力を使うのか。それをどうやって高めていけばいいのかということをだ。
もちろん、これだけのことで子供に想像力の重要性が伝わるとは思えない。実際、現在の教育機関でも、そのような想像力だとか、個性だとかを伸ばす教育は、いささか足りないとはいえ多くの学校で行われている。私も、これまでいろいろと方法を述べてきたが、実際は何をどうすれば想像力向上につながるのかほとんど見当がつかない。それだけこの問題が難しいことも、解決の糸口を見つけづらくしている。だが、少なくとも、問題提起をし、解決策を模索することはできる。一人一人が案を出したり、可能性を見いだせれば、想像力の重要性を周知の物にできることもあるかもしれない。我々は、想像力の重要性を忘れ去るべきではないのだ。
たしかに、想像力がありとあらゆる人の人生で、必ず必要になってくる能力ではないかもしれない。一般的な労働者などでは、自分に課せられたノルマをこなしていく能力があれば、最低限社会では生きていくことができるだろう。それに、そのような労働者が社会を支えていることを否定してはいけない。つまりは、想像力をそこまで必要としない職業もあり、その人たちも重要性も非常に多いということだ。それは認める。しかし、本当に彼らの人生の中で、想像力は全く必要のない能力といえるのだろうか?人生というのは、そう単純なものではない。様々な要素が積み重なってできるものだ。一概に何かしらの能力を使わないということはないだろう。もちろん、クリエイターなどの職業についている人と比べれば、想像力を使わずとも生活が送れる人もいる。しかし、そのような人も、確実に日常生活のどこかで想像力を働かせるものだ。理系科目でも、問題文を読んだり、論文を提出する際には文系の国語力が必要だし、文系科目でも、同じく理系関連の用語や人物が出てくるケースが多い。それと同じで、どちらか一方だけを学んだり、身に着けたりしても、世界はそう簡単にはうまくいかないのだ。想像力を完璧につけるべきだとは言わないが、より多くその能力を使えて、そして活かせるようになれば、きっと世界はより明るくなるだろう。我々人間は、だから暇な時間が必要なのだ。一概に想像力の余地を狭めるわけにはいかない。