固有名詞が
   高2 あおつゆ(aotuyu)  2025年5月2日

 『魏志倭人伝』によれば、古代の航海では「持衰」と呼ばれる男が同行し、身なりを整えず禁忌を守ることで航海の安全を祈った。彼は一種のシャーマンであり、航海が成功すれば報酬を得たが、失敗すれば命を失った。持衰の存在は、「流れない時」の象徴であり、出発地の時間を目的地まで持続させるための演劇的表現ともいえる。こうした「時」は単なる抽象概念ではなく、五感で感じられる「もの」としての性質を持つ。著者はラオスでの調査を通して、人々が年齢のような時間的情報よりも、目の前の存在そのものに重きを置く文化に触れ、時間観を再考する。時間は一様ではなく、地域や人ごとに異なり、「私の時」と「あなたの時」は交わらない。時間とは座標ではなく、体験される「場」そのものなのだ。時間を、いつもどこでも同じ速さで流れるものであり、人生を展開するための単一の座標と捉えるのは問題だと思う。

その原因としては第一に、現代の社会は定刻通りに物事を進めていくことで成り立っている。例えば、現代社会では、電車やバスは時刻表に基づいて運行されており、数分の遅れも多くの人々に影響を及ぼします。通勤・通学する人々はそれに合わせて行動しており、ひとつの列車の遅れが、その後の仕事の会議や学校の授業開始時刻にも影響を与えます。社会全体が「決まった時間に決まった場所で活動する」というルールで成り立っているからこそ、時間の厳密な管理が求められるのです。

また、もう一つの原因としては第二に、文明が進んだいわゆる先進諸国の時間感覚以外の時間の流れがあることを忘れているからだ。例えば、本文にも登場するラオスの村でのエピソードでは、村人たちは子どもの正確な年齢を知らず、質問されると実際に子どもを呼んできて「この子です。何歳に見えますか?」と問い返す。このように、彼らにとっては数字で時間を管理することよりも、「今ここにその人がいる」という事実のほうが重要である。これは、時計や暦に縛られた先進国の時間感覚とは異なる、「生活に根ざした時間の流れ」の例といえる。

したがって、時間を一律に管理しようとする現代社会の考え方は、すべての人間の営みに適応できるものではない。むしろ、文化や生活のあり方によって、時間の感じ方・とらえ方は大きく異なるという事実に目を向けることが必要である。古代の持衰のように、「時」を五感でとらえる感性や、ラオスの村人たちのように「今ここにある存在」を重視する時間感覚は、現代人が忘れがちな「生きた時間」の在り方を教えてくれる。時間とは、単なる数字や時計の針の動きではなく、人間の体験や営みの中に深く根ざしているものなのである。私たちは、あらためて時間の本質を問い直し、それぞれの文化や個人の「時」を尊重する姿勢を持つべきであろう。