時間に縛られるとは
高2 たくま(aiyono)
2025年5月2日
時間という概念が人類に認識されたのは、紀元前に遡るが、時間という概念を可視化したのはごく最近のことである。現代は時間軸を中心に回っている。我々が学校や職場に出勤する際にも、時計は用いられているし、電車やバスと言った公共交通機関にももちろん用いられている。もはや我々は時間、ひいては時計とは離れられない生活を作り上げてしまった。時間中心に生きる現代社会には多数の利点は確かに存在するものの、一方で我々を時間という概念に常に縛り付けるという弊害も生み出してしまった。電車が唯一時刻通りに来るというこの日本では、その被害も顕著だろう。常に時間を気にする我々を生み出した原因とは何であろうか。
まず原因として挙げられるのは、短時間でいかに成果を挙げられるかという能率主義の出現だ。御存知の通り、現代社会を作り上げた原点は英国の産業革命からスタートしている。人間が達成しうる作業量の遥か上を行く工業化が発展したことで、人類に短時間でいかに成果を挙げられるかという資本主義、能率主義的思考が発露し始めた。現代社会に置いても、それは全く同様であり、会社に置いても、一定期間内にどれほどの営業成績を収めたかによって、会社内の立場が変化することからもわかるだろう。またそれは学生の立場である我々も同様である。学力テストといった形態も、ある一種の能率主義と捉えることができる。一定時間内により高いスコアを達成したものが優秀とされ、逆に低いスコアを取ったものには追試と呼ばれる罰が与えられる。こうして考えてみると、現代社会のほとんどの仕組みがこの能率主義的ゲームに置き換えることが可能だ。どんな場面にも能率的仕組みが導入されてしまったことにより、我々はより一層時間に対して敏感にならざるを得なかった。テストの最中に時間を気にしないバカがいないように、誰もが時間という概念を崇める用になってしまった。これは果たして良い傾向と言えるだろうか。
さて、もう一つ挙げるとすれば、時計という発明をしてしまったことだろうか。単純明快、時計とは時間を可視化する装置である。そんな当たり前のことが実現されたのは、近代以降である。日本では江戸以前、時計というものが無く、明るくなったら起きる、暗くなったら寝るといったように、原始的な時間に対する生き方を行っていた。ところが明治以降、時計というものが発明されてしまったゆえ、我々の原始的時間の生き方は、数値され管理されるようになってしまった。ある一種の仮説を建てよう。もしも時計がなかったら我々はどんな生き方を強制されていただろうか。まず何時に起きるという概念がなくなる。そして何時に寝るという概念もまた同時に消滅する。授業は先生が満足行くまで行えるようになるし、生徒もまた満足の行くまで趣味や部活に没頭できるようになる。時間を忘れるという言葉があるように、時計がなくなれば、我々の生き方はより自由になるのだろう。時計という発明は、人類を時間という概念に閉じ込める装置だったのかもしれない。
とはいえども、時間を気にしなければならないというのもまた事実。公共交通機関が定刻通りに来なくなったら困るのは我々であるし、先生が満足の行くまで授業をされるというのも、生徒側からしたらたまったものではない。しかし、いささか我々は時間に縛られすぎるがゆえに、余裕を失いかけている側面がある。現代人に足りないものは、余裕である。ゆっくり地道に行うという作業に価値を感じなくなってきた現代では、超加速する作業についていけなくなった人々を置いてけぼりにし、一部の人間の身が得をするような社会が形成されてしまっている。人間にはそれぞれのペースというものがあり、個々の速度を尊重することこそが最も重要なことではないだろうか。