自然の美
高1 あうては(auteha)
2025年6月2日
美とは本来、自然の造化による創作物の性質を言い表す言葉である。それは美という性質を与えようと自然が望んだ結果与えられた性質ではなく、自性として備わっている性質である。よって美は人間の存在以前から、滅亡の後まで自然が存在して造化を続ける限り人間に関係なく持続し続ける性質である。自然の美の本質は美醜の対立を超越したところにある、醜いものにたいする美しいものではなくどんなものもそのままの性質において美しいのだ。一方近代に始まった美の基準は、醜と対立する美という範囲内でしかかんがえられなくなり、自ら美の次元を低い段階に限定する状態となったのであった。私は、自然界に存在する美にもっと関心を向けるべきだ。
第一の方法は、自然と積極的に関わりあっていくことだ。私も、最初は自然で遊ぶだけだったが、いろいろな場所、いろいろな時間を自然と共に過ごす中で、美しいと心の底から感動する瞬間が必ずやってくる。
それが自分にとっての本当の美なのだろう。時を忘れ、心にその瞬間が刻まれるような美しい光景を自然は描き出してくれる。私の心に最も強く残っているのは飛行機から見たヒマラヤ山脈だ。自分たちの乗る飛行機と同じ高さかそれ以上にそびえたつ白く雪化粧した山々が、巨大な壁のように見え、夕日を反射してキラキラとオレンジ色に輝くその壮大な姿に私はただただ感動し、一生忘れることがないであろう程美しかった。美しいという意識もわかないほど、率直にそれは美しく、心に響くものがあった。このように、自然は何とも比べることのできない絶対的な美しさを見せてくれる。それには自然の中で時間を多く過ごすのが良い。
第二の方法は、現代の美の基準、評価方法自体を見直すことだ。例えば学校の美術の授業では当然作品を作るわけだが、本来は美の基準、何を美しいと感じるのかは人それぞれ違うので、出来た作品を画一的に評価することは困難なはずだ。技術面でも、筆遣いが多少なっていないのを味があると思う人だっているかもしれない。もちろん学校である以上一定の基準で評価することは必要となるので、これはあくまで一例である。また、美術館に行ってみると、心に訴えかけるような作品がある一方で、自分には子どもの落書きにしか見えないような絵が飾られていたりもする。個人個人によって美は異なるが、インターネット上にもそういった絵の美しさが分からないという意見は一定数存在する。しかし、情操教育などと称して世間的に美しいとされる物は美しいと思わなければならないという風潮があるように感じてしまう。美とは本来直感的に自分の心に働きかけ、その存在自体が他の何にもよらず絶対的に美しいと感じることのできるものではないのか。
確かに、世間一般で美しいとされることを理解するのも大切だ。それらは人間の創造の副産物であり、文化である。しかし、「美とは何を美しいとするかではなく何が美しいかである」ように、美とは本来直感的に美しいと思えるもであり、相対的なものではないはずだ。そして、人類は美を醜い物の対比として考えるようになっている。しかし、自然界の美はそういった比較とは次元の違うところでその存在自体超越した美しさを放っている。