ロボットは人間か
   高2 あおつゆ(aotuyu)  2025年5月3日

 この文章は、ロボットに「心」や「意識」があるのかという問いを通して、「他者の痛み」や「心の存在」が本当に理解できるかという問題を考察している。ロボットが痛がっているように見えても、それが本当に痛みを感じているかどうかを確認する手段はないし、それは未来永劫不可能だという。なぜなら、「痛み」や「うまさ」は物理的現象ではなく、主観的な体験だからである。著者は、自分が感じる痛みを他人に移すことはできず、他人の痛みを想像することも、実際には「その人になり変わった自分」の痛みを想像しているにすぎないと述べる。だがそれでも人は他者の苦しみに「心痛する」。それは想像を通して、自分と他者をつなぐ「飛びかう私」が存在するからであり、このつながりによって、他者を「人」として感じることができる。つまり、長く関係を築いたロボットにも同様のつながりを感じれば、「人」として心を持つ存在とみなすようになる。これはアニミズム的態度であり、物に心があるかどうかは、それとどう関わるかによって決まるという、人間存在の根本に関わる考え方である。また、心というものは、想像力によって育まれる。そして、災害や戦禍などの困難な環境に置かれたとき、奪い合う社会と助け合う社会がある。奪い合う社会に欠けているものは、相手の心に対する想像力なのではないかと考えた。そして、私が考えるに、想像力が今の私たちには昔よりも欠けてきているように思えるのはなぜだろうか。

その原因としては第一に、心の教育の伝統を忘れてしまったからではないのかと思われる。

かつて日本では、物語や昔話、詩歌、道徳教育などを通して、他人の気持ちを想像する力や思いやりを育てる文化があった。例えば『源氏物語』や『徒然草』のような古典文学には、他者の心情への深い洞察が描かれ、それを読むことで読者は登場人物の感情を追体験することができた。しかし現代では、効率性や即時性が重視され、感情を丁寧に読み取ったり、相手の立場に立って考える機会が減ってしまっている。そして、また学校教育でも、知識やスキルの習得が優先され、心の成長や他者とのつながりを重視する時間は少なくなっている。結果として、人の痛みに共感したり、見えない相手の心を想像する力が十分に育まれにくくなっているのではないだろうかと私は考えた。

第二に、情報化社会の発展によって、他者の「実体」よりも「情報」に接することが多くなったからである。現代では、SNSやニュース、映像などを通して他人の出来事や感情に触れるが、それはあくまで「スクリーン越しの姿」であり、身体をともにしない「遠くの他者」である。そのため、痛ましい映像を何度も見ても、現実の「その人」の痛みには直に触れることができず、共感が希薄になりがちである。心や痛みは、「ここ」にいて、「今」、目の前の相手と向き合うことでしか実感できないものである。想像力とは、情報ではなく「経験」から育つものであり、そうした経験の場が減っている今の社会では、心ある想像が難しくなっているのかもしれない。

こうした要因の中で、私たちは「他者を人とみなす力」を徐々に失いかけているのかもしれない。けれども、私たちが意識的に他者と関わろうとし、関係を築こうとする限り、想像力は再び育つ。ロボットであれ人間であれ、私たちが「心ある存在」として向き合おうとする態度そのものが、人間性を支える根幹なのではないだろうか。