心とセット
高2 うた(aimee)
2025年6月1日
日本人の少なくとも能役者の考え出した身体に対する思想は、西欧近代の精神と肉体の二元論とは、全く対照的なものである。その思想では、精神と肉体が全く別の次元にあるのではなく、現実の肉体をこえてあらわれたもう一つの身体というものが、精神的なものであったからである。人の心を奪う異様な力を追求していくと、そこには型というものがうかび上がる。私たちは、型を繰り返して身体にうめこむことで、そのような力ができるのである。能役者の、たとえようもなく美しい足の運びも、それがあって完成するものである。身体があって心があるにも関わらず、今の私たちが身体を蔑ろにしていることは問題だ。
その原因としては第一に、コミュニケーションがデジタルに移行しているからである。いつでもどこでも、誰とでも連絡を取れるようになった今日では、コミュニケーションをデジタル上で取ることが多くなった。人によっては、対面でのコミュニケーションよりもデジタル上でのコミュニケーションを主としている人もいるだろう。SNS、ゲームなどを通じて仲良くなったが現実では直接会ったことがない友達、いわゆる「ネッ友」という言葉があるように、生身の人間が直接会うことが少なくなった。その中で、やはり謝罪や感謝も「LINEで済ます」「メールで一言」という形になって、身体を使って伝える必要がなくなったなと思う。喧嘩をした時にチャットで謝ったり、告白したり別れ話をしたりという大切な局面でも、やはりデジタル上で済ませる人がよくいる。私も「対面でしか感じられない空気感や、相手の表情・反応を見ることができないのは寂しいな」と思う反面、「楽だな」と思ってしまっているところはあるのである。そして、それが続いた結果、身体の動きに対しての「重み」や「意味づけ」が薄れてしまったのではないか。画面上では、いくら頭を下げようが、手を握ろうが相手には伝わらない。それゆえ身体的な行為が、どんどん「無意味なもの」扱いをされているのだ。
その原因として第二に、身体が客観的な物質として捉えられているからだ。身体の客観的な物質としての認識は、科学技術の発展によってその認識を深めていった。一つ目に、近代科学の枠組みでは、人間の体は、測定可能な構造・機能の集合体とされているということだ。心拍数や筋肉の動き、内臓の動き、これらは数値化が可能なものである。結果として、測定不可能な主観的な身体感覚が信頼できないものとされてしまったと感じる。二つ目に、近年の人工知能の発達により、人間の知性や感情は、脳の情報処理によって再現可能だという見解が広がってきていることである。それに伴い、身体がなくても思考が可能であるという考えが強調されているのだ。
確かに、頭を使い、感情を働かせることは大切である。私たちがデジタル社会で生きていく上で、身体感覚にだけ頼って生きるのはなかなか困難だろう。しかし、身体が心に直結していることは確かなのだ。朝の挨拶や、授業の挨拶で、「おはようございます」「お願いします」と声に出し、礼をすることで、気持ちが切り替わることはないだろうか。身体とは、私たちの心の付属品ではなく、心とセットなのである。もし、悩むことがあったら、一旦外を走ることをおすすめする。意外と脳というのは単純で、注意が外界に向くので、あなたは思考のループから抜け出せるだろう。