能を見るとわかるが
   高2 あおつゆ(aotuyu)  2025年6月1日

 能の足の動きは日常には見られない異様なもので、指を曲げて床に貼りつくように進み、途中でつま先が浮き、指が真っ直ぐになる。この不自然な動きには深い意味があり、能役者はまず全身の構えを習得することで自然にこの動きができるようになる。足の動きの美しさに魅了された筆者は、それが人間の通常の身体動作を否定するものであることに気づく。能の身体表現には、「自己否定」を前提とする変換の構造があり、それにより役者はあらゆる存在へと変化できる。その核心には「型」があり、型を繰り返すことで力が生まれ、現実の身体を超越する力が形成される。この型によってこそ、能役者は自然な身体を拒否し、精神的な次元に達する。日本の伝統的身体観は、身体の生理を穢れと見なし、体の線を隠す衣服文化と結びつき、西欧の精神と肉体を分離する思想とは対照的である。能においては、肉体を超えた精神的な身体そのものが表現され、それが観客との精神的なつながりを可能にするのである。そして、私が思うに、身体と心を別次元のものとする二元論的な考え方が日本でも広まって、身体と心が相互に作用しあうことが忘れられたからではなのかと思う。

たとえば、現代の教育現場では、学力や知識の習得が重視される一方で、身体を使った表現活動や体育の時間が軽視される傾向がある。長時間の座学が中心で、身体を動かす機会が限られ、生徒の集中力や感情の安定に悪影響が出ることもある。また、企業でもデスクワーク中心の労働が一般化し、身体の疲労や不調があっても「気力で乗り切る」といった精神論が重視され、心と体のバランスを考慮しない働き方が続いている。さらに、精神的な不調がある人に対しても、心の問題として切り離され、生活習慣や身体の状態と結びつけて理解されることが少ない。

そして、また私が思うに、身体の知恵を無視するようになったからだ。現代人は、睡眠や食事、休息といった身体の自然なリズムや欲求を軽視しがちである。たとえば、スマートフォンやパソコンの長時間使用によって夜更かしが常態化し、眠気や疲労といった身体からのサインを無視して活動を続けることが多い。また、効率やスケジュールを優先するあまり、空腹を感じても食事をとらず、逆に時間だからと満腹でも無理に食べるなど、身体の声に耳を傾ける感覚が薄れている。さらに、怪我や不調を抱えながらも無理にスポーツや仕事を続け、「がまんすれば治る」といった考えで自然治癒力を軽んじる場面も見られる。こうした状況を見ると、私たち現代人は、身体を単なる「道具」や「機械」として扱うようになってしまったのではないかと思う。効率性や生産性を優先するあまり、身体が発する微細な信号や、長い時間をかけて培われた身体の知恵に耳を傾けることが少なくなってしまった。その結果、心と体のバランスが崩れ、ストレスや不安、体調不良といった形でそのしわ寄せが表面化している。

しかし、本来身体には、理屈を超えた深い知性が宿っている。能の型のように、身体に繰り返し刻まれる動きや所作のなかには、個人の意志を超えた意味や力が存在している。これは、古くから受け継がれてきた芸能や武道、茶道、書道などの伝統文化にも共通しており、「型」を通じて身体と精神が一体となる経験が重んじられてきた。それは、身体と心が断絶していないという、日本独自の身体観に基づくものである。

私たちは今こそ、このような身体観を見直すべきなのではないだろうか。身体を無視して心だけで何かを成し遂げようとするのではなく、身体のリズムや声に耳を傾け、そこに内在する知恵とともに生きていく必要がある。能の舞台に見られるような、あの異様なまでに洗練された足の運びは、まさにそうした身体の深い理解と訓練によってのみ可能となる。身体を「鍛える」のではなく「聴く」こと――その感性を取り戻すことが、現代を生きる私たちにとって、いま最も必要なことの一つではないかと思う。