情報を伝える相手は誰か
中2 あきかは(akikaha)
2025年6月1日
フィクションは、真実に近づくために創作される。しかし、ノンフィクションは、創作しないという約束の上に成り立っている。ノンフィクションのライターは、事実の断片を収集することにより、事実に関するひとつの仮説を生み出しているのだ。私は以前、新聞記者による記事の捏造の話を父から聞き、驚いた。そもそも、新聞記者は、真実を伝えるという役割のもと活動をするのが当たり前だと思っていたからだ。しかし、そこには、読者の心により響かせることと、報道としての望ましさの二つが入り混じっていた。
確かに、真実を伝えることは大切だ。私は旅行に行くことが大好きで、よく家族と一緒に旅行の計画を練っている。その中で、宿泊先のホテルのホームページを見て、どのような雰囲気や部屋の規模なのかを事前に知っておきたいと考えている。数年前、夏休み旅行の準備のため、いつものようにホテルのホームページの写真を見ていて、部屋の広さに驚き、その日がとても楽しみになった。しかし、実際に部屋へ入ってみると、思っていたほどの広さではなかったことに、落胆してしまった経験がある。その旅行自体は楽しかったし、印象に残っているのだが、過度な期待は良くないのだと反省した。勿論、期待し過ぎた私にも非はあるのだろうが、そのホームページの写真は、本当にありのままの姿を捉えていたのかと疑問に思った。初めてのものを知りたいときは、全体像をそのまま伝えることが大切だ。
しかし、真実に少し手を加えることも大切だ。例えば、医療における「希望を持たせる説明」というものがある。これは、特に末期がんの患者に対して、医師が病状をそのまま伝えるのではなく、希望を持たせる表現に変えることがあるということだ。具体的に説明すれば、「余命数カ月です」という伝え方をするのではなく、「今後も痛みを抑えながら、できる限り快適な生活が遅れるよう支援していきます」という方法を取るのだ。これは、完全な事実を伝えることによる患者への精神的ダメージをなるべく防ぎ、治療意欲や生活の質が著しく低下することのないようにするために行われている。このような例を見ると、真実をあえて伝えないことが、誰かの助けに少しでもなる可能性があるということが分かる。
真実を伝えることも、真実に少し手を加えることも、どちらにもメリットがあり、どちらも大切である。しかし、最も大切なことは、その情報を「誰に伝えるか」ということだ。伝える相手を意識することで初めて、どういった伝え方をすれば良いのかという議論に至る。「カメラマンは、レンズのほこりを払うまえに目のほこりを払わなければならない」という言葉があるように、伝え方ばかりに囚われているようでは、相手が本当に求めている情報を与えることはできないのである。私たちは、常に目的を意識しながら、日常生活の中で情報共有を行っていくべきなのだ。