事実と創作
中2 あかるら(akarura)
2025年6月1日
ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。特にノンフィクションは創らぬというルールに基づき恣意的に想像力を使わないことで「在る」に支えられる力を付与されている。だからこそ一定の約束がある以上フィクションと異なり、可能なことには限界がある。つまり、ノンフィクションは事実の断片による、事実に関する一つの仮説にすぎないのだ。
確かにノンフィクションで真実をありのまま伝えることは大切だ。世の中の出来事はノンフィクション、つまり事実によって支えられている。もしも事実だと信じていた情報がフィクションだったと判明すれば、それは私達を衝撃と動揺とともに混乱させるだろう。主に新聞やテレビに掲載されているニュースは取材による根拠に基づいているが、時にあたかも真実かのように事実でないことを作り上げ、結果的にメディア騙してしまう情報がある。いくつもの大発見で有名だったある考古学者を新聞記者が一日中取材したことがあった。するとその学者は発掘をする当日の朝に土器を土の中に埋め込み、これを掘り出すことを発見として多くのメディアの注目を集めていたということが判明したそうだ。つまり、裏付けによって成り立っているメディアが何の疑いもなくフィクションを伝えることになったのだ。彼の「発掘」の中には学校の教材に載るほど偉大なものもあり、この事件が世に知られたことで多くの出版社はこれらの全てを削除しなければならない事態に陥った。事実を曲げ、これを世の中に発信していくことは誰にとっても価値のないことだ。ノンフィクションをありのまま伝えることで私達は本当の世界を見ることができるのだ。
しかし、フィクションで創作をすることが大切なこともある。ノンフィクションとは異なり、私達に娯楽やインパクトを与える力を持っているからだ。メディアで目にするドラマや動画、そして写真の大半はノンフィクションをベースとしつつ、フィクションの良さを取り入れている場合が多い。これは文章を書く際にもよく使われる。作文の本論で述べる体験実例は事実であることがほとんどだが、その表現には少なからずフィクション的要素が含まれている場合がある。車酔いの原因について自分の経験を書いたことがある。その際、実際は寝不足や食べ過ぎなどの要因があった。しかしその時手に持っていた本を下を向いて読んでいたことを思い出し、読者が想像しやすい例としてこのことを中心として説明した。私達にはある一つの事実を面白くする力がある。ノンフィクションを基本としつつ、より共感できるようフィクションを盛り込むことによって創造が何倍も豊かになるのだ。
ノンフィクションにもフィクションにもそれぞれの良さがある。しかし最も大切なのは自分の言いたいことを伝えることである。「自分は誤解されやすいと思ったら、言葉が足りているかどうか反省してみる」という美輪明宏の言葉がある。いくら良い考えを持っていたとしてもその表現の仕方次第で価値が大きく変化してしまう。自分の主張内容にあった構成はその説得力を高め、相手との情報のやり取りをさらに円滑にするだろう。