ノンフィクションの書き手は(感)
中2 なかそう(nakasou)
2025年6月1日
ノンフィクションとは、事実の断片をもとに構成された、事実に関する一つの仮説にすぎない。絶対的な真実には到達できず、そこには必ず書き手の視点や選択が混じり込む。だからこそ、想像で空白を埋めるのではなく、わかることとわからないことを峻別し、断片を断片のまま提示する姿勢が重要になる。そのとき、事実は「在るもの」としての質感と重みを帯びはじめる。ノンフィクションは、全能な叙述を求めるものではなく、限界を受け入れながらも真実に近づこうとする、静かで誠実な営みなのだ。
事実をありのままに伝えることは大切だ。小学生三年生のころ、小学二年生の生徒たちにいじめられたことがあった。そんなある日自分の手提げ袋の持つところがとれてしまった。そんな時、このことを使って自分をいじめた子に仕返しをしようと思った。手提げ袋を壊したのは自分をいじめた小学二年生の生徒にするというものだった。先生に「手提げ袋を昼休みに小学二年生の生徒に壊された」といった。しかし、自分をいじめた小学二年生の生徒は昼休み校庭で遊んでいたことが分かったので自分はこっぴどく先生に怒られた。自分がいじめられていたことを伝え仕返ししようと思ってやった、と先生に伝えたら「最初からそう言えば大騒ぎにならなくて済んだのに」と言われた。自分をいじめた小学二年生の生徒は結局怒られた。このことから、真実を忠実に共有することで、先生や親の信用がならずに済む。つまり、正直者こそ救われるのだ。
創作を加えてより真実に近づくという考え方もある。事実をそのまま伝えるだけでは、本当の気持ちやそのときの空気まで伝えるのはむずかしい。だから、自分の気持ちや考えをわかりやすくするために、少しだけ場面をふくらませたり、言葉を工夫したりすることがある。それは、うそをつくのとはちがって、本当に伝えたいことを、もっと深く伝えるためのやり方だと思う。たとえば、「さびしかった」「うれしかった」などの気持ちも、そのまま書くより、「胸が張り裂けそうなほどさびしかった」や「飛び上がって踊りたいほどうれしかった」など、まわりのようすや心の中を少しくわしく書くことで、読む人にも気持ちが伝わりやすくなる。自分の中にある「本当の思い」に近づく手段こそが創作なのだ。
確かに、正直者こそ救われることもあるし、自分の中にある「本当の思い」に近づける方法もあるし、どちらも大切だ。しかしもっと大事なことは「始めることも大切だが、やり遂げることの方が、もっと大切である。」という名言もあるように、何かを伝えるといに諦めたりするのではなく、最後まで責任をもって行動することである。