美と生きる
高1 なおや(aamaka)
2025年6月1日
美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言い表す言葉である。美はだから、人間の存在以前から、滅亡の後まで、自然が存在して進化を続ける限り、人間に関係なく持続し続ける性質であることを、確かに、承知し直さなければならない。人間の造型の美しさは自然美の前では多くは低い次元の美であった。なぜ低い次と言わざるを得ないのか。究極性、価値性において、それは相対性の範囲内にとどまりがちだからである。私たちは本質的な自然を今一度知るべきだ。そのために考えられる方法は2つある。
第一の方法としては、自然を見つけることだ。自然に触れようと考えたとき遠足、山登り、旅行を思い浮かべるが、自然は私達の身近に存在する。歩道のアスファルトの割れ目に咲く植物や街路。また、太陽が昇る、雨が降るといった現象もまた自然である。その中に美が隠れている。アスファルトの割れ目に咲くたんぽぽの黄色の美しさや、車の座席から見える紅葉した葉がひらひらと落ちる、まさにこれらが美しさだ。この自然美を見ると人間は落ち着いた気持ちでいられる。私たち人間は古来から動物を家畜や愛玩用に生活を共にしてきた。しかしいつからだろうか、私たちが彼らをペットというようになったのは。彼らは我々が精神的に病んだとき、そばで私たちを慰める。彼らは伴侶的な生き物なのである。そのため最近では彼らを「ペット」ではなくコンパニオンアニマル(伴侶動物)という言葉が使われるようになった。だからこそ人間が動物をペットと名付け、嗜好的に管理することは自然美という大きな枠組みでみたとき、それを軽視した行いになる。動物は美であり、束縛されるものではないのだ。
第二の方法は美に優劣をつけるような意識を変えていくことだ。学校の部活動や授業でも、俳句などの文学作品や絵画といった芸術作品を人間はこぞって優劣をつけ区別する。しかもそれがあたかも当たり前かのようにコンテストでは金賞、銀賞、銅賞といった具合に美に順位をつけてしまう。生徒は「入賞するため」、「プロに認めてもらうため」だけに作品づくりに没頭する。このとき、美という面で自分で大切にしていた形のないものが心から知らずうちに消えてしまう。本来、美を創造することは、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のように自然の美をあるままに綴ることである。この美探求で気づく美は、誰かに言われないと気づけない、または理解できないものがほとんどだ。
確かに、人間は美を生み出し、その美が私達の生活を豊かにした。正しい時間に時を刻む時計は実に美しいものだ。自然の中では、朝昼晩はあっても時間という概念はなかった。が、時計は時間を作ってしまった。しかし、美とは自然という枠内で完結するものではなく、すべてを超越するものである。よく若者はコンプレックスという言葉を使い自分の容姿と他人を比べてしまう。コロナ禍に、マスク美人という言葉が世の中に出回ったほどだ。このような美醜の対立を超越する考え方こそが美である。だから、鏡越しの私はとても美しい存在である。美とは対象物の美しさではなく「醜さ」を持ち得るものだ。