美とは、本来、自然の(感)
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 美とは、本来、自然の造化による創造物の性質を言いあらわす言葉である。自然はその創造するすべてのものに、美という性質のほかは与えない。もとよりそれは、美という性質を与えようと自然が望んだ結果与えられた性質ではなく、自性としてそうなった性質である。自然の美の本質は、美醜の対立を超越したところにある。自然には醜いものがない。醜いものに対する美しいものがあるのではなくて、どんなものもそのままの性質において美しいのだ。美はだから、人間の存在以前から、滅亡のあとまで、自然が存在して造化を続ける限り、人間に関係なく持続し続ける性質であることを、確かに承知し直さなければならない。この超越性の故に自然美は究極の美であり得る。けれども、近代に始まった美術は、美の基準は個性におかれ、美と対立する醜という範囲内でしか考えられなくなり、自ら美の本質を低い段階に限定する状態となったのであった。だから、私たちは自然がもともと持つ偉大な美というものに、もっと目を向けていくべきである。そのために考えられる方法は二つある。

 第一の方法としては、自然とふれあう機会を積極的にもつことだ。自然と触れ合う機会を積極的に持つことで、自然の真の姿を見つけうことができる。自然というものは短時間で作り上げられたものではなく、長い年月を経て成り立っているものが大半だ。例えば、道端に咲いている一輪の花があるとしよう。その花は、昨日や一昨日できたのではなくて色々な環境を乗り越えて出来たものである。また触れ合う機会といえば、学校などで開催されるキャンプ宿泊だ。キャンプ宿泊では街の中心地から離れたところにある山で開催される。ここでの最大の目的は生徒たちが日常生活から少し変わった日を過ごすことだ。そこで生徒たちは、言葉では言い表せない景色を見ることができるだろう。しかし、山奥に行って自然を観察しなくても、意外と身近に自然は存在している。例えば、朝日、夕日、空の雲の動きなどだ。

 第二の方法としては、美に順位をつけるような美術教育や美意識を考え直すことである。最近では、生徒たちが作った全作品に順位をつけることが多いらしい。そこで美術教育や美意識を考え直すことが大切になってくると思う。生徒たちは自分たちしかわからない想像を元にそれを作り上げているので、それを順位化するのは適切ではないかもしれない。つまり、最近の美とはどれが一番優れているのかを決める競争のようなものになっている。競争ではなくて、一つ一つの作品に目を向けることがもっと重要なことだと思う。

  人間も自然にも負けない物を日々開発している。しかし自然とは何十年、何百年とかけて作られたものであるので、自然の方がまだ優っている。確かに、美を追求する芸術家の業績も価値のあるものである。しかし、私たちは自然の中に本質的にそなわった美をもっと鑑賞するべきである。美とは外観だけで決められるのではなく、その本質を表しているという名言があるように、もっと私たちは美というものを考え直すべきだ。