ナツメ インドではほうぼうの町角で(感)
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年月日
まずこの長文は、インドではほうぼうの町角で自転車の修理屋を見かけた。そこには中古部品ばかりごたごたになっている小さな店である。さんざん使い古したしろものだ。そこの店ではパンク直し、部品交換等をやっている。日本では身近な自転車はインドでは貴重品であり、重要な道具だったからそういう店は流行っていた。私はそんな店を見かけるとなんだかとても懐かしい気がした自転車だって大変役立つ交通機関で、みな実用品であった。父はリヤカーにセメントの袋などを運んでいた。日本の駅前広場には自転車が乗り捨てられていくが、その自転車はほとんどサイクリング用だ。子供たちは平気で公園に置き去りにしていく。それをインドの子供たちが見たらどう思うだろう。靴、自転車、タクシー、バスでも、インドでは実際に修理し、再生して、使えなくなるまで使い切る。逆に新品をお目にかかる方がめずらしかった。これは一言で言えば日本が大量生産大量消費の工業国であり、インドが乏しい貧しい国だということなのだろうが、私は見比べてなんだか釈然としないのであった。どっちかが間違っているように思えないのだ。限りのある地球の資源を不必要に浪費し、一方は使い切ろうとする。点からばかりでなく、教育、心の問題としても日本のような経済力に任せた浪費習慣は、良い影響を与えるとは考えにくい。私が考えさせられたのは、一体生きるために本当に何を必要とするか、ということだった。快適な生活、贅沢と域を接し、本来の生の姿を忘れさせるのではあるまいか。現代日本人がおごっているのは確かなようである。
というお話である。これはまさにでインドは道具にカインドのようだ。
私はもう使わなくなった理科の実験道具を鉄砲の工作に使おうとしたけれども、回路がつながらなかったのか、完成は豆電球が光るものだったのだが、失敗してただのガラクタになってしまった。しかし、その失敗した工作と実験道具はまだとっておいている。なぜなら捨てるのはすこしもったいないと思ったからだ。
母は、小学生のころからのスヌーピーの筆箱、入学祝のクマの手提げ、体操服袋は、旅行に行ったりするときに、靴下などのこまごましたものを入れて使っていたらしい。それと、おばあちゃんの手提げは元は着物だったのが、友達がもう使わなくなり、リメイクしたものらしい。最初父に聞いてみたのだが、父はそんなものはどこにもないという答えだった。それを聞いて私は、母やおばあちゃんはいろいろ、リメイクしたり、しているけれど父はあまりしていないなんて父はもったいない人で、もったいないばあさんが来るのかな。母とおばあちゃんはいろいろなものをリメイクしたりしているので、父とは真逆だなと思った。
物は大切にして使えなくなるぐらいまで使った方が環境にいいことが分った。