事実と脚色
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  ノンフィクションの書き手は在るものを映そうとするのに対し、フィクションの書き手は、在らしめるために作ろうとする。ノンフィクションにとって最も大切なことは、それは何が可能で何が不可能化の境界を見極めることのはずである。ノンフィクションのライターにとってできることは事実の断片を収集することでしかないが、それによって事実の核といったものを掘り出すことはできない。事実の断片を断片として提出することには、その断片の選び方、提出の仕方にどうしても書き手の偏見や感情が混じってしまう。それらの混入は不可避であると同時に、この世に万人が認める唯一無二の絶対的な事実ではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することだ。ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関する一つの仮説にすぎない。



 ただ、事実に脚色を少しでも加えた時点でそれは完璧な「事実」とは異なったものになってしまう。個々人の事実の見方の違いを完璧に埋めることはできないが、事実をできるだけありのままの姿で伝えることは大切だ。イソップ童話には、「嘘をつくこども」という話がある。羊飼いの少年が退屈しのぎのため狼がきたと騒ぎ、大人たちが大急ぎで来た姿を笑い転げる。この一連の出来事を何回か繰り返したために終に信用を失い、本当に狼が来た時には助けが来なかった、という話だ。嘘をつくことは良くない、とこれで教えられた記憶がある。人間関係は信用の上に成り立っているという場合が多いだろう。あまりに誇張したり、脚色を加えて物事を説明したりすることは、一部分において嘘を述べていることとなってしまう。



 受験勉強や現代文などといった教科で、表現技法というものを習う。擬人法、対句法、反復法などがあるが、それらはある種の脚色であるといえよう。だから、多少の脚色を付け加えることは良い。表現技法は内容を強調したり印象づけたりするために使われる。つまり、それらによって相手に内容が伝わりやすくなるということだ。また、脚色やごまかしを使うことによって相手を安心させることもできる。何らかの深刻な問題に直面した時、相手には実際とは違う、より軽い問題であと言うと、相手は安心できる。例えば、胃がん患者がいたとする。しかし、がんと患者へ言うと、ショック死する可能性もあるために、胃潰瘍であると医者は言うだろう。



 完璧な事実は周囲に話せないが、嘘や過大な脚色も良くない。事実を言うことは大切だが、脚色を加えることにもその独自の効果がある。いうなれば、どっちつかずの中途半端な状態となってしまう。アリストテレスは「人の心を動かすのは、ただ真実であるだけではなく、それをどう語るかである」といった。人に何かを語るうえで最も重要なことは、事実や脚色を含みながらも、相手に理解されやすいよう考えて伝えるということである。ノンフィクション・フィクションともに相手に理解されるということが最も重要であるはずだ。