周囲との調和
   高3 さとり(wamaro)  2025年6月1日

 もしも「忘れる」という現象が境界の融けてしまう現象であるとしたら、この「溶けてしまう」という現象の形で現れているものをさらに私は問わなくてはならない。そうではなくて自分を保ちながら、ある相手と交わり、そのあいだの境界線を溶かしてしまうあり方のことをここでは意味している。これはどういうことなのかというと、私たちはこの「忘れる」という形で、実際のところキレイさっぱり大気や大地のことを忘れ去っているのではなく、私たちと大気や大地との関係を気にもとまらないほどに融け合わせている、ということだったのである。現代という社会では個人の利益ばかりを優先し、全体の調和を考えないことが増えた。このままでは社会全体に歪みが出てくることが問題だ。

 原因として、資本主義社会では成果ばかりを見ているからだ。学校も資本主義社会の一つである。近頃はあまり見なくなったが、昔は生徒の自主性を重んじていることをアピールしている学校がよくテレビに出ていた。だがそれは代わりに、一通りの成果を達成できてからの話であり、求められる成果を達成できなかった場合は促していた自由を無くさせているように感じる。そして成果を上げたとしても、維持するためには推奨されていた自由の生活を代償に捧げ続けていくことだ。明らかに矛盾している。私は昔から成績も普通、運動神経は普通よりほんのちょっと有るか無いかという線をいっていた。そういう私が通っていた小学校も例外にもれず、生徒の自主性を重んじているといっていた。確かに、成績があまり振るわない子たちは、得意なことはなんだと先生たちから問われ自主性を押されている。また、優秀な生徒はおのずと自ら勉強したり、興味を持ったものに対して行動を起こしていたので自主性はすでにあったのだろう。しかし、我々普通属は先生たちからもっと自主性を磨きなさいだとか、自主性という名の得意不得意を何も考えられていないような勉強をするよう何度も言われ続けた。これは自主性なのだろうかと常々感じていた。やはり、学校での資本主義社会の考え方は問題だ。

 その対策として、学校での集団生活、団体行動を通して、全体に目を向けさせるよう育てることだ。今先生たちの労働環境に対してネットを通し、子供たちの話すネタになったりするほど全貌が見られてくるようになってきた。そこでよく話題に上がるのが、部活は廃止すべきか、続けるべきかという話題だ。やはり、部活は土日を使っていたり、上下関係が厳しいからやめた方がいい。むしろ辞めたい。というような意見や、将来のステータスになる。それに楽しい。という意見がある。どちらとも正しいし、間違っている。それは本来先生の労働環境の為にどうすべきかという議題の中に、己の感情論を主題にして話している人がいることだ。この話題は見方を変えてしまえば、周囲をどれだけ見れているかというようにも捉えられる。それに、近頃の人は自分の意見を押し通しており、お互いの意見を見方を変えれば幼稚園生でも分かるようなことをいっていても理解していない高校生だっている。これは明らかに周囲を見る力が不足している。そのため、もっと周りの人と話す機会を設けたりし、いろいろな意見に触れる機会をつくるべきだ。だが、ただ機会を作っただけでは目的をなすことは難しいだろう。そこで意見をぶつけている人たち同士に相手の意見をどう捉えているのか、その話し合いをさせていくべきだ。

 確かに、チャンスが多い現代では自分に振ってくるチャンスを見ることに精一杯で他者に目を向ける余裕があまりない。しかし、「困難を乗り越えるには、仲間との協力が不可欠である。」というように、周りの仲間と対等に話し合える。多少強い言い合いになっても全体と調和していけるような人物に各々変わっていくべきだ。やはり、全体の調和を考えれないことは問題だ。