コンピューターに限らず
   高2 あおつゆ(aotuyu)  2025年6月2日

 現代のコンピュータをはじめとするハイテク機器について、「使いこなせるのは一部の人だけ」とする考えに異議を唱え、誰もが使いやすい機械であるべきだという視点が強調されている。特に重要なのは、「使いにくいのはユーザーのせいではなく、機械の設計が悪い」とする考え方であり、そうした認識を社会全体で共有し、文化として定着させるべきだと述べてもいる。また、「道具としてのコンピュータ」は、人間にとって使いやすく、親しみやすくあるべきであり、そのために次の三つの条件──規範性(人に命令してはならない)、手段性(目的達成のための手段であること)、透明性(使っていることを意識させないこと)──を満たすべきだと説かれている。つまり、道具は「主人に仕える奴隷のように」控えめに機能すべきであり、逆に道具に使われるような状態は本末転倒だという。さらに、現在のテクノロジーの設計や販売方法にも問題があるとされ、たとえば「誰でも簡単に使える」と宣伝しながら、実際には不親切な製品が多く、消費者が混乱し孤立している現状が批判されてもいる。最終的に筆者は、「テクノロジーは人間のためにある」という原点に立ち返り、ユーザー自身が道具のあるべき姿を問い、メーカーに声を上げ、次世代にもその意識を伝えていく責任があると主張している。そして、私が思うに、道具に振り回されている現代人に問題があるのではないのかと思う。

そのため、どうすれば私たちが道具に振り回されず、本来あるべき「人が道具を使う」関係を取り戻せるのかを考える必要がある。

第一に、ユーザー自身が「わからないことは自分が悪いのではなく、設計が悪いのかもしれない」という意識を持つことが重要である。たとえば、あるソフトウェアや機器が直感的に使えなかったとき、多くの人は「自分にはセンスがない」と思って諦めてしまう。しかし、それは本来の道具のあり方に反している。道具とは、誰にでも使えるように作られるべきものであり、もし理解しづらいと感じたら、それは設計側に改善の余地があるというサインである。そのような意識の転換が、メーカーや開発者への健全なフィードバックにもつながり、より良い道具の開発を促すことになる。

第二に、学校や家庭など、日常生活の中で「道具の使い方だけでなく、道具との付き合い方」を学ぶ場を増やすことが求められる。今の教育では、ICT機器の操作方法やプログラミングのスキルばかりが重視されがちだが、「なぜこの道具が必要なのか」「この道具によって何が変わるのか」という問いを持つことが、道具に使われずに使いこなす第一歩になる。道具を使う目的を明確に意識することで、必要のない機能に振り回されることも少なくなるだろう。

第三に、テクノロジーを生み出す側、すなわちメーカーや開発者がユーザーの立場に立った設計思想を持つことが不可欠である。デザインやインターフェースの段階から、さまざまな年齢層やスキルのユーザーを想定し、実際の使用場面を想像して作られた製品こそが「道具」としての役割を果たす。現代の製品が高機能であることにこだわりすぎて、結果的に「使いづらいもの」になっている現実は、再考されるべきである。

結局のところ、私たちが道具とどう関わるかという態度が問われている。便利さに盲目的に依存するのではなく、自分の生活に本当に必要なものは何かを見極め、道具との距離を主体的に選び取ることが大切だ。そうした意識を持ち続けることが、道具を使いこなし、自分の人生を主導権を持って生きるための第一歩なのではないだろうか。