人間とは
高2 わてひ(watehi)
2025年6月1日
能役者の足の動きは、日常の自然な身体動作を否定することで成立している特殊な「型」によって生まれる。この型は、単に美しいだけでなく、どんな役にも変化できる柔軟性と力を生む。つまり、型には身体を精神的次元へと高める力がある。これは身体をただの生理的存在と見なす西欧的な二元論とは異なり、身体そのものが精神とつながる独自の思想である。こうした思想に基づく身体観を持っていた日本人の伝統に比べ、現代社会は身体の意味や可能性を軽視しがちである。このことが、表現や存在の深みを失わせている要因であり、現代の問題点だ。
現代社会が身体の問題を軽視するようになった原因の一つに、日本が近代以降、西欧的価値観を取り入れたことがある。身体を単なる道具としてではなく、精神と一体のものとして見直すことが、これからの社会に必要だと感じる。近代以降、デカルト的な「精神と肉体の分離」という考えが広まり、論理的思考や知識偏重の傾向が強くなった。その結果、身体そのものの感覚や動きの意味を深く考える機会が減ってしまった。私たち学生が授業中に長時間座りっぱなしで、身体を動かす時間がほとんどない。また、勉強に集中するためには体の疲れや眠気を「気合」で乗り越えるべきだという考え方もある。これらは身体の声を無視する姿勢といえる。こうした状況では、心と体のバランスを崩しやすく、結果的に集中力や精神面にも悪影響が出るだろう。
二つ目の原因として、効率主義の広がりがある。何事も素早く成果を出すことが求められ、時間をかけて体で覚えるような過程が軽視されがちだ。そのため、身体の動きや感覚を丁寧に積み上げていく重要性が見過ごされるようになった。たとえば、昔話「桃太郎」では、桃太郎は鬼退治の前に旅をしながら仲間を集め、きびだんごを渡し、関係を築いていくという時間と手間を惜しまない行動をとっている。これは、目に見える成果を急がず、しっかりと準備を整える大切さを教えてくれる話だ。現代の私たちは、すぐに結果を出そうと焦るあまり、そのような「身体を通した準備」や「過程での経験」に価値を見出さなくなっている。だが、身体をじっくり使い、動きや習慣を通して得られる感覚こそが、深い理解や豊かな表現につながる。効率ばかりを追い求める社会では、そうした身体的知恵が失われてしまう危険があるのだ。
確かに、現代は情報や技術が進歩し、身体よりも頭脳やデジタル機器に頼ることで多くのことが効率的にこなせるようになった。そのため、「身体を使わなくても問題ない」という考え方にも一理あるだろう。しかし、「人間とは読書ではなく、農耕をして生きてきた」という名言がある。考えに一理あるからといって、身体の重要性を軽視することは大きな問題である。身体は単なる道具ではなく、感覚や経験を通して私たちの思考や感情、さらには人との関係性までも支えている存在だ。身体を意識し、それを通して得られる深い理解や表現力を大切にしなければ、私たちの人間性や豊かな文化は次第に失われていくだろう。だからこそ、現代社会においてこそ、身体の問題にもっと目を向ける必要がある。