慣れた環境について知る
高1 ヨーヨ(waoho)
2025年6月2日
科学技術は地域や制約を抜け出て全世界へ広がった。ヨーロッパでは、科学技術の硬い普遍性と文化の柔らかい普遍性とは根本的に対立せず、併存しているのに対して日本近代は同一のエポックを形成したという違いがある。外国の技術を取り入れるときは、自国の文化にあわせて消化していくべきだ。
第一に、上っ面だけの模倣をしないことである。しかしながら、このような模倣を自覚するのは、実際にはなかなか難しいように思われる。確かに、形から入るという考えのもと、その分野の成功者のやり方をまねることは、一見すると良い方法のようにも感じられる。しかし、それが本当に自分に合ったやり方であるとは限らないため、全く同じことを繰り返しているだけでは、その人以上になることは決してできないだろう。すなわち、上っ面だけをなぞる模倣という「考えないやり方」ではなく、まず形を知ったうえで、では自分に合った方法とは何かと問い直し、考えながら行動する姿勢こそが大切なのではないか。また、形から入れば成功するのだという考えにとらわれてしまうと、自分が間違った方向に進んでいることに気づけず、そのまま突き進んでしまい、結果的に失敗して自信を失う恐れがある。実際に、僕も友達と一緒に人気のFPSゲームを始めることになったとき、まずは強くなるには環境が大事だと思い込み、性能の高いゲーミングPCやハイスペックなモニターをそろえた。これだけの環境が整えば、あとは勝つだけだと自信満々だったが、実際にプレイしてみると、エイムや立ち回りは思うようにうまくいかず、次第に自信を失っていったという経験がある。このように、ものを持っていく、改善するといった行動は比較的簡単である一方で、文化を変えるということはとても難しい。例えば、水が不足している地域に水道を引いたとしても、他人より先に水を確保しようとして勝手に水道を掘り起こすという行為が起きたり、深夜に町にある消火用の水をくみ取り、それを売るといった事件が発生したりする場合があるという。これは日本ではまず起こらないことであり、やろうとも思わない人が多いだろう。つまり、これは文化の違いによるものであり、奪い合うことが当たり前という過酷な価値観や環境が、そこには存在しているのだ。では、そのような問題をどのようにすれば解決できるのだろうか。それは、単に「掘り起こされないようにする」ことや、「鍵をかける」といった一時的で表面的な対策にとどまるべきではない。なぜそのような奪い合いが起きているのかという根本原因に向き合い、それがたとえば金銭的な問題や教育の欠如にあるとわかれば、どう支援していくべきかを責任を持って突き詰めていくことが必要なのだ。
第二に、日本の文化の良さを再発見することである。確かに、海外に行けば新しい風景や初めて触れる文化など、人間の五感や好奇心を刺激するものが数多く存在している。このため、どうしても海外のほうが魅力的だと感じてしまい、逆に慣れ親しんだ日本の文化や生活を過小評価してしまいがちなのではないか。しかし、慣れすぎた環境だからこそ、そのありがたみは失ってからでないと実感できない、というのもまた事実だと思う。だが、そのありがたさは、失わなくても「意識的に目を向け、客観的な視点で見つめ直す」ことで十分に感じ取ることができるのではないだろうか。実際、僕の学校では、中学一年生で群馬県の水上へ、二年生で長崎へ、三年生でシンガポールへ、そして高校一年生では京都へと、学年ごとに修学旅行を通してさまざまな文化に触れる機会があった。一度日本の自然や歴史を体験し、その後に海外の文化を感じ、最後に京都で日本の古典芸能を再発見できたことで、日本の良さをより深く理解することができたと感じている。この修学旅行の経験を通じて、日本の良さはもちろんのこと、海外の良さやそこにある課題についても再認識することができた。このことから、自分にとって「当たり前」となっている日常や習慣を、あらためて注意深く、そして客観的に見つめ直すことで、それらのありがたみを実感できるようになるのではないか。そして、その実感こそが、自分の文化や生活を誇りに思う第一歩になるのだと思う。
確かに、進んだものを取り入れることも大切だ。しかし、「知らぬ土地を語るより、今立つ場所を見つめよ。」というように、もっと日本や自分のいる環境について一度理解し、それを海外に説明、自慢できるような誇りを大切にしていくべきなのだ。