国際感覚があるということは(感)
中3 あきえよ(akieyo)
2025年6月2日
国際感覚があるということは、ただ流暢に外国語を話し外国人とそつなく付き合えるというような単純なことではない。それは、国際感覚という言葉は、国際化という言葉がそうであるように、その捉え方が人によってまちまちだからである。ただ、私たち日本人の場合、どうしてもまず日本という国の枠を考え、その枠組みの中で、「世界に誇れる日本人の地質とはなにか」と考えることになってしまいがちである。私はいつも自分のことを優先して考えてしまいがちである。だから私は、自分の利益だけでなく全体の利益を考えられるようになりたい。
その方法としては第一に、自分の意見をしっかりと持つことである。さもないと、人との意見交換ができなくなり、みるみると自己中心的な考えへと突き進んでしまうだろう。私は、いつも自分の意見に自信が無い。そのため、よく友達や親との会話で自分の意見を言わないことがある。特に、その意見に対して友達から「でもさ」と被せられたり、親から間違いを指摘されると、より一層自分の意見に自信がなくなってしまう。そう強く感じているが、また同時に自分の意見に正確性が欠けていることにも理由があるとも思う。だからこれからは、意見一つ一つに自信が持てるように、出来る範囲で調べることを心掛けたいと感じた。そして、傍聴者だけでなく意見を発表する側も躊躇なく発言できる場を作り上げていきたいと思った。
また、第二の方法としては、広い視野を持つことである。自分がものごとに追われて切羽詰まっていたり、人に追い詰められたりしたときは、誰もが自分を優先した行動や考えに陥ってしまいがちである。しかし、その欲を抑えて全体の利益を考えられる人が、本当の国際感覚を持っている人であると私は思う。この前私は、まさに自分の利益しか考えられなくなってしまった経験をした。それは母親との喧嘩である。やはり中学三年生は反抗期の期間ということもあり、この喧嘩で母を言いまかせて喧嘩に勝ちたいと考えてしまっていた。だから、その喧嘩は次の日まで長引き、ことが収束した後もしばらく微妙な雰囲気が母と私の間に流れてしまった。私はこの経験から、全体の利益を考えられるようになるためには、広い視野をもつことがとても重要であると感じた。
確かに、自分の利益を考えて行動することも大切だ。スポーツの試合で全体のことを考えていたら、試合が成り立たなくなってしまう。しかし私は「私たちの幸福が、他の人々の不幸に支えられているのであってはならない」という言葉があるように、私は自分の視野を広げて俯瞰し、全体の利益を考えられるようになりたい。特に、クラス対抗の体育祭や学年対抗で出し物を出す文化祭など、自分の身近にあるものごとから、全体の利益を考えられるように心がけていきたいと思う。