全ての分野を等しく
中3 のんの(aohita)
2025年6月3日
現代社会では学問や企業などあらゆる分野で専門化が進み、専門家の時代となっているが、その一方で「専門バカ」が生まれる危険もある。専門家は自分の分野には詳しいが、それ以外には無知になりがちだ。しかし、自分の専門外のことにも常識や教養をもとに思慮深く語れる人もおり、その言論は他の専門家にも影響を与えることがある。こうした言論の基盤となるのが常識や一般的教養であり、これは専門家でない人々(=大衆)が他分野について考える際の支えにもなる。アリストテレスは「通念(エンドクサ)」に基づく議論の有効性を説いており、それは現代でも重要とされる。常識は完璧ではないが、通俗化された専門知識から生まれるもので、非専門家同士の対話の基盤ともなる。また、教養とは専門知識や職業技術とは異なり、自由な市民として生きるために必要な幅広い知的素養であり、知恵ある言論にはこの教養が必要だとされる。僕は、いろいろな分野に対して知識を持てるように生きたい。
まず僕が大事だと感じるのは、一つのことだけに執着せず、物事を柔軟に考える姿勢だ。たしかに、専門的な知識を深く掘り下げることは重要だが、それに偏りすぎると、他の視点から物事を見る力が弱まってしまう。たとえば学校の勉強においても、特定の教科ばかりに力を入れていると、他の教科とのつながりに気づけなくなる。僕は、できるだけすべての教科をバランスよく学ぶようにしている。なぜなら、すべての知識や考え方は、どこかで結びついているからだ。たとえば、歴史を学ぶことで現代社会の仕組みを理解できるし、理科の知識が日常生活に活かされることもある。友達の中には、体育だけが得意で、他の教科が苦手だという子がいる。その子は運動神経が良くて、たしかに体育では輝いているけれど、それ以外の話題になると、話がかみ合わなくなることがある。たとえば授業中も、ずっと体を動かしたいという話ばかりしていて、周りの子がついていけない場面を何度も見た。得意なことを伸ばすのはいいけれど、他の分野への興味も持ってくれたら、もっと面白く話せるのになと思う。多くの人と関わっていく上で、自分の得意分野以外の話題にも関心を持つことは、とても大切だと思う。
次に大切なのは、好き嫌いをできるだけ減らすことだと思う。僕も昔は、国語が少し苦手で、読解問題になると集中力が切れていた。でも、あるとき気づいた。数学や理科でも、文章を読み取らなければいけない場面がたくさんある。たとえば数学の文章題では、日本語の読み取りができなければ、式を立てることすらできない。僕は一時期、数学ばかり勉強して国語を後回しにしていたけれど、その結果、数学の応用問題でつまずいてしまった。逆に、国語力がついてからは、他の教科の問題にもスムーズに取り組めるようになった。科学の授業でも、実験手順や説明文をきちんと読む力が必要になる。つまり、好きな教科だけを伸ばすのではなく、苦手な教科にも少しずつ向き合うことで、全体の力が高まるのだと実感した。たとえ不得意でも「できない」と決めつけずに、少しずつ慣れていくことが、自分の可能性を広げてくれる。
確かに、一つの分野を専門的に深く掘り下げるには、そこに集中していれば良いし、その方が効率的で楽に感じることもある。しかし、社会の中で生きていくためには、それだけでは足りない。いろんな人と協力したり、多角的に物事を判断したりするには、幅広い視野と教養が不可欠だと思う。アインシュタインは「教育とは、学校で学んだことをすべて忘れた後に残るものである」と言っている。この言葉のように、僕は単にテストで点数を取るための知識ではなく、人生のあらゆる場面で役立つ土台としての教養を身につけていきたい。竿のため僕は、どんな分野でも最低限の基礎は満遍なく身につけて、バランスよく生きていきたいと思っている。