50億
小6 よしたか(yositaka)
2025年6月3日
トキのように絶滅寸前にまで追い込まれた動物や、数を激減させている植物を救おうと努力する姿は、「人間の良識」と評される。しかし、絶滅がほぼ確実になるまで放置し、その段階になってようやく保護に乗り出すという姿勢には、大きな矛盾を感じざるを得ない。
アメリカが自然保護の先進国とされる理由のひとつに、他国よりも早く自然を破壊してしまったという背景があるのかもしれない。かつてアメリカには「リョコウバト」という鳥が生息していた。鳥類史上、最も個体数が多かったと言われ、18世紀には50億羽もいたと推測されている。しかし、リョコウバトは乱獲の対象となり、20世紀初頭には絶滅してしまった。
この鳥はとてつもない大群で生活しており、あるアメリカの画家は「まるで空を覆い尽くすように、三日間も途切れることなく飛び続けていた」と証言している。その飛翔の後には、町中が白い糞に覆われるほどの被害もあったという。にもかかわらず、リョコウバトの肉は美味とされ、都市部でも高値で売れたため、多くの人々が銃や棒を使って捕獲を行った。
北アメリカの先住民たちは、産卵期に捕獲を控えるなど、自然との共生を意識した行動を取っていた。しかし、19世紀に入ると移住してきた人々の人口が急増し、電報などの通信手段が発達すると、より効率的に大量の狩猟が行われるようになった。その結果、わずか数十年のうちにリョコウバトの個体数は激減してしまったのである。
保護すべきだという声もあったが、「まだたくさんいる」という認識が根強く、十分な対策が取られなかった。人々はその数の減少に気づかず、気づいたときにはすでに手遅れだったのだ。ここから言えるのは、人間は身近なものの変化に対して非常に鈍感だということだ。これは「変化に鈍い」というだけでなく、「当たり前」が失われていく過程に無関心であることの表れでもあるのではないか。
最近、保育園まで暮らしていた鷺沼のことを、今もそこに住んでいる友達に尋ねてみたところ、「あの公園、無くなったよ」と言われた。あの公園とは、僕たちが小さい頃から遊び、木々が生い茂っていた本当に身近な場所だった。その公園はいま空き地のままで、まだ何かが建てられた様子もない。では、なぜ公園はなくなってしまったのだろう。
自然とは、本来、人間にとって最も身近で、最も大切にすべき存在なのではないか。しかし、その大切さに気づくのはいつも失われた後である。身の回りの自然が少しずつ姿を変えていても、人はその変化に気づきにくい。だからこそ、当たり前の中にある価値を見直し、失う前に守る意識を持つことが必要なのだと思う。
この話をふり返ると、「喪失してからの後悔」は避けるべきであり、今あるものを守ることの大切さが浮き彫りになる。まさに「温故知新」過去の失敗から学び、今後の行動に生かすという言葉が、この話にはふさわしい。リョコウバトの絶滅や、失われた公園を通じて、私たちは自然との関わり方を改めて見直すべき時に来ているのではないか。