見てから知るべきである
   中1 なかすけ(nakasuke)  2025年6月2日

 見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい。われわれは「知る」ということをとても大事なこととして考えている。しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔になることがある。だから、まず見ること、それに触れること、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ。実際にものを見たり接したりするときには、これまでの知識をいったん横へ置いておき、そして裸の心で自然にまた無心にそのものと接し、そこからうけた直感を大切にし、そのあとであらためて、横においていた知識をふたたび引きもどして、それと照らしあわせる。自分の感性を信じつつ、なお一般的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける余裕、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。僕は、知識に縛られず、物事を自由にそして、ありのままにとらえること、見ることが大切だと思う。

 第一の理由として、先入観や固定観念があると、物事の本質を見ることができないからだ。小学校の頃、苦手な人がいたのだが、僕は、その人は自己中心的で、周りの人に迷惑をかけ、それでも学ばない人という、嫌な部分でしかその人を見ていなかった。だが、実際のところは、優しい部分があったのかもしれない。自分は、嫌な人だという固定観念にとらわれていたのかもしれない。本質を見つけるには、知識ばかりを行動の糧にするのではなく、しっかりと見つめ直す必要があるのだ。

 第二の理由として、知識に頼らない方が、見方が様々になり、余計な情報や意外な気づき、新たな発見や出会いにも目を向けることができるからだ。僕は、ディズニーランドやシーに行くことが好きなのだが、隠れミッキーがあると知り、それを探すことに集中してしまい、他の景色などを詳しく見ることができなかった。予備知識がないことで、視点を一つに縛られず、多方面から物事を見ることができるのである。

 確かに、知識があった方が、物事を効率よく、より詳しく見えることができるかもしれない。しかし、「行動するためには多くのことに無知でなければならない。」という名言があるように、知識に縛られず、物事を自由に見ることは大切だ。