六月 清書
高2 あおつゆ(aotuyu)
2025年6月4日
筆者は、茶園の若旦那から「栄養状態の良い茶の木は花を咲かせない」と聞く。花は種子をつくるための繁殖器官であり、栄養が満ち足りた状態では、茶の木は繁殖の必要を感じなくなるという。このような状態は「栄養生長」と呼ばれ、花を咲かせて種を残す「成熟生長」と対比される。茶畑では変種を防ぐために、自然な種子による繁殖ではなく、取り木や挿し木といった人為的な繁殖方法が用いられている。取り木は、枝を折って土に挿し、栄養を補給しながら根を出させる方法で、茶の木は人間にとって都合のよい形へと変えられている。筆者は、生命の自然な営みをコントロールする人間の営みに複雑な感情を抱きつつ、老いて栄養を吸えなくなった茶の木が一斉に花を咲かせる姿に、生命の本質と成熟の意味を深く考えさせられる。そして、私が思うに、現代社会では、茶の木と同じように、恵まれた環境で苦労せず、自立もしない「栄養生長」状態の若者が増えていることが問題なのではないのかと私は考えた。
まず、私が最初に考え付いた、第一の原因としては、過保護・過干渉な家庭環境が要因なのではないのかと考えた。例えば、最近の社会では親が子どもに苦労をさせまいと先回りして世話を焼くことで、逆に、若者が自ら困難に立ち向かい、成長する機会を奪われてしまうということになってしまうのではないのかと思う。それにより、筆者が言っていた、茶の木が外部から常に栄養を与えられ、繁殖(=自立や成熟)を忘れてしまう姿と重なるのではないのかと私は最初に考えられることができた。
そして、次に私が思う第二の原因として、失敗や努力を避ける社会風潮がもう一つの要因になっているのではないのかと私はもう一つ考えた。「効率」や「結果」ばかりを重視する社会では、過程の中で得られる苦労や葛藤が軽視される。若者も失敗や痛みを避ける傾向が強まり、挑戦することに対して臆病になる。その結果、未知の領域に飛び込む意欲や、自らの限界を乗り越えようとする姿勢が薄れ、個人の成長や創造性の発揮が阻まれてしまう可能性がある。
その結果として、若者は「栄養はあるが、花を咲かせない茶の木」のように、安定した環境に甘んじて、本来あるべき「自立」や「成熟」に向かう契機を失ってしまっているのではないだろうか。生きる力とは、本来、困難や逆境の中で試され、鍛えられるものだ。ところが現代社会では、そうした困難を未然に排除し、「快適さ」や「効率」が最優先されるために、内なる生命力が十分に発揮される機会が減っているように思える。
では、どうすれば私たちは茶の木が花を咲かせるように、若者が本当の意味で「成熟」し、「自立」していけるような社会を築いていけるのだろうか。
まず大切なのは、「失敗や困難は成長の糧である」という価値観を、社会全体で見直すことだと思う。成功体験だけでなく、挫折や苦悩を通してこそ、人は自己を深く見つめ、他者の痛みにも共感できるようになる。教育や家庭の中で、結果だけでなく「どのような過程を経たか」に注目する姿勢を育てることで、若者たちは恐れず挑戦できるようになるだろう。
次に、親や大人たちが「与える存在」から「見守る存在」へと意識を変えていくことが求められる。過保護や過干渉は一見愛情のようでありながら、実は子どもの成長の芽を摘んでしまう行為でもある。大人がすべてを先回りして用意するのではなく、子どもが自分で悩み、選び、失敗し、やり直す時間と空間を保障することこそが、本当の意味での「栄養を断たれたときに咲く花」の可能性を引き出すのではないか。
さらに、社会全体が「成熟」を評価する視点を持つことも必要だ。若さやスピード、結果が称賛されがちな今の風潮に対し、経験に裏打ちされた深さや、内省からくる知恵を大切にする価値観を育てていくこと。つまり、表面的な「成功」ではなく、人間としての深まり=花を咲かせることを重んじる文化を醸成することが、これからの時代に必要なのではないかと私は考える。
このように考えると、「花を咲かせない茶の木」の姿は、現代社会に対する一つの警鐘でもある。与えられた環境の中で満足して生きるだけでなく、自らの力で花を咲かせようとする意志を持つことが、人間としての「成熟」につながるのではないだろうか。