角度を変えて世界を見ると
小5 あえたし(aetasi)
2025年6月3日
コオロギの声は、日本人には美しく聴こえるが、ヨーロッパ人には雑音として聴こえるといわれている。アオマツムシの声も、帰化昆虫だということを知ってからうるさく聴こえるようになった。知識や習慣は、ものの見方を変える。自分のものの見方や考え方が絶対のものだと思わないことが大切だ。
一年生のときのことだ。学校で給食を食べていると、肉がぽとっと机に落ちた。「もったいな」とぼくはあわてて手でひろいあげて口に入れた。すると隣の友達が「汚いわね、手を使わないで。あなたインド人なの」とおこった。
ぼくは恥ずかしくなって、今度は絶対手で食べないぞと自分に言い聞かせた。
でも、はたして「手で食べる」ことは絶対にダメなことだろうか。
インドでは「手食」の文化があって、みんな右手でご飯を食べる。左手は不潔な手として思われていて、また食器を使うことも一度使った食器を使うことは汚いことと考えられているのだ。
もし日本人がインドに行って、インドの文化を知らずに、友達の家にいって箸を使って食べ始めたら、きっとインドの人に追い出されるだろう。郷に入れば郷に従えだ。
しかも、ぼくは手で直接食べた方がおいしく感じる。例えば、おにぎりだ。ごはんをまるめてお椀にいれて箸で食べるより、手を使っておにぎりを食べた方が温かさが感じらるし、ずっと食べやすくて美味しいのだ。
だから、ぼくはマナーや習慣が違うだけで、手で食べることは絶対にダメだとは限らないと考えた。
以前、家族で美術館に行ったとき「ダリ」の絵画を見たことがある。「記憶の固執」という、どこか分からない場所に、がらくたのように溶けた時計がごちゃごちゃおかれているだけの絵だ。ぼくは一目見ると「なんだこれは、子どもの落書き」と笑った。でもなぜか、とても心をひかれた。
絵の解説を見ると、「柔らかいもの」と「硬いもの」の対比していること、白い謎の生物はアリで「死」の象徴であること、時間の流動性と超現実的な空間の表現していると書いてあった。そう言われてみると、落書きだと思っていたダリの絵も、少し理解できたような気がした。
全てのことは、とらえ方が違うだけで、印象や考えも変わるということが分かった。
自分が「好きではない」「間違っている」と思うことでも、絶対自分が正しいわけではないと考えた。