富と充足
高2 ばにら(tokunaga)
2025年6月3日
施肥が十分に与えられ、栄養状態の良い茶の木は、花を咲かせない。本来植物にとって、花は繁殖器官であり、それを咲かせるのは自身の子孫を残すための本能であるはずだ。しかし肥料による人工的な栄養の過剰は、この摂理を凌駕するほどの「永遠の生」を幻覚させるのである。花を咲かせ、種子を作り、散ってゆく、この死へと向かう生長を「成熟」と表現するならば、栄養過多による生の充溢はむしろ強制的な未熟への残存ではないか。茶の木をこのような状態に置いておくことが、人間の利となるのである。だが、先進国における現代社会にて、人間そのものが栄養過剰に陥っているのではなかろうか。勉学も仕事も手につけず、計画性なくひたすら家に引きこもる人々、いわゆるニート問題がこれをわかりやすく示している。高度経済成長後に生まれ育った世代の、気だるい安息と不確実な充足感。これらの原因はなんたるか、以下に二つ考察する。
第一の理由として、子育てのコストが高すぎることが指摘できる。このコストというのは、教育費はもちろんのこと、「子供はこう育つべき」という社会的なプレッシャー、それに伴う時間的制約の総合だ。子育てのハードルが上がるにつれ、当然ながら子供の数は減り、一人っ子世帯が増える。一人っ子というのは親の関心を一身に受けるものだから、必然的に各子供へ与えられるものは多くなる。それは学業成功に対する圧力でもあり、また過保護的な親の行動にも現れるだろう。特に韓国は象徴的な実例である。1965年には5.00の出生率を誇っていたこの国は、その労働力を基礎に急激な高度経済成長を成し遂げた。しかし、現在韓国の出生率は世界最低の0.78、という深刻な問題に直面している。先進国の少子高齢化はもはや避けられない現象であることは近年察しがついてきたが、韓国の場合はさらに極端だ。過度な学歴社会での成功を願う親が、全身全霊を一人の子供に託す。その結果、子供は物質的な充足と精神的な切迫という矛盾に置かれることとなる。やがて成長したその子供は、金銭的制約と自身の経験の前で、子育てを忌避するようになるだろう。あるいは学業に全てを投げ打った結果、社会生活が億劫になり、ニートとなるのではないか。実際、韓国の若者ニート率は18.3%と世界的に高い水準を示している。物質的に満たされた生活の快楽を知り、それが容易に手に入る環境において、年齢を重ねた子供がこのような立場へ逃げることはむしろ必然的と言えるだろう。
第二の、おそらく最も根本的な起因は、効率化された産業による大量生産と富の氾濫だろう。十八世紀の産業革命を発端に、先進諸国の生活水準は現在まで上がり続け、快適な生活がほぼ普遍的なものとなった。さらに過去三十年間のインターネット普及の結果、無制限の娯楽が当たり前となり、古代ローマの大貴族如く、一生を受動的な快楽に費やすことまでもが可能だ。これこそ理想の社会である。それを一個人が享受するための労力は最小限であるべきで、苦労は悪である。こんな価値観が根付きつつあるように感じる。しかし、ただ無条件に与えられる充足と快楽の前に、本来満たされた生活を手にいれるために必要な活力、そこから得られる知恵や経験は消滅してしまう。それはすなわち各人の人生観、社会を生き抜くための自軸の弱化だ。最初からすでに満たされているからこそ、明確な不満もなければそれを解消しようとする動機もない。そのような目標なき人生において、大きな達成感というものは存在し得ないのだ。
こうして、私たちはその空虚を誤魔化すべく、安価なドーパミンをひたすら求め、一過性の娯楽に溺れ続けるのである。住居がガラクタで溢れるが如く、「生」そのものが無価値な情報と粗末な欲求に埋もれてゆくのだ。大きな欲望もなく、かといって大きな絶望もない。口先で不幸を嘆きつつ、幸福に感謝するも、その実は無感動。個人の努力を伴わない物質主義は、そんな虚無を生み出すのである。
確かに、数世紀前と比べて、先進諸国の社会は総合的に「良い」ものとなっただろう。実際、生活の質、思想や技術の発展、安全保障の強化、どの側面を切り取っても私たちは恵まれた時代を生きている。しかし、一方でこの数十年において、新しい世代の幸福感の低下が叫ばれているのも事実だ。アメリカにおける、戦後の経済成長を生きたいわゆるブーマー世代と、その子供たちにあたる悲観的なミレニアルやZ世代の対立はそれをよく表しているのではないか。
満ち足りた生とは、本来ならば不足状態から始まるものである。不足から抜け出すその道程こそが、生の衝動であり、精神の成熟なのだ。しかし、溢れんばかりの富楽が基本状態の世界は、全く逆の、生死の意識を無くした未熟な人間を生み出すのではないか。それは最終的に自身や子供に対する過度な完璧主義か、その圧力から逃げるための諦めと虚無となる。だからこそ、これからの社会は物質的な富ではなく、各人の内観の豊かさを評価するべきであると主張する。生まれついた瞬間からどれほど物が充足していても、必ず精神は未熟、すなわち不足状態なのだから。