一つの視点だけでは見えないもの
中3 かののん(kanonon)
2025年6月3日
学術研究の場においてだけでなく、企業活動の場においてもまた専門家が進んでいる現代は「専門バカ」たちの時代となる危険性も大いにはらんでいるのです。自分の専門外の事柄について思慮分別を伴った言語を展開できる人たちの言論の基盤は、専門的な知識や技術ではなく、常識や一般的教養だ。教養というのは、その道の専門家になるための技術として学ばれるのではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものだとして学ばれるのだ。
そのための方法としては第一に、得意な分野以外のことや、一見無駄に思われるようなことにも目を向けることである。私はバレエを長年習っているが、ある時期まで、バレエ以外のことにあまり興味を持たず、学校の勉強でも好きな教科ばかりに集中していた。しかし、ある舞台で、振付家から「踊りだけでなく、役の背景や時代についても調べて、自分なりに考えてから踊ってほしい」と言われたことで、初めて歴史書や哲学書に手を伸ばし、考える習慣が身についた。もちろん母の協力もあったが、結果として、踊りに深みが出ただけでなく、学校の授業でも物事を多面的に考える力が育ったと感じている。一見関係なさそうな分野にこそ、自分を広げるきっかけがあるのだ。
第二の方法としては、学校や塾などでもただ知識を詰め込んだり暗記するだけの教育をするのではなく、幅広い教養が身につくようにカリキュラムを組むことだ。たとえば、作家であり研究者でもある森博嗣さんは、もともと工学部出身で大学教授として働いていたが、小説を書くことで自分の思考を整理し、工学とは異なる視点から社会や人間を見つめる力を得たという。理系と文系の枠を超えて学び続けたからこそ、彼の作品には深い教養と論理性が感じられる。こうした例からもわかるように、ただ覚えるだけの教育では教養は育たないと実感できる。思考力を養うような学びの場が、教養を支える土台になるのだと思う。
確かに、自分の好きな分野を深く追求していくことも大切である。しかし、スティーブ・ジョブズの「あなたの時間は限られている。だから他人の人生を生きて無駄にしてはいけない。」という名言があるように、自分の信じる道を追い求めることは、同時に自分という存在を広く深く知ることでもある。その過程で、専門性と教養の両方を兼ね備えた人間へと成長していくのではないだろうか。
現代のように変化が激しく、正解が一つではない時代だからこそ、自分の専門分野だけでなく、他分野への理解や常識、教養といった「自由人」としての資質がますます重要になってくる。教養とは、知識の量ではなく、ものごとの本質を見抜き、他者と共によりよく生きていくための力なのだ。私はこれからも、自分の専門を深めながら、それにとらわれすぎず、常に外の世界に目を向けて学び続けていきたいと思う。