~人類~150点を取るゼネラリスト
   高2 かずま(auyoto)  2025年7月1日

  国語の時間などで本を読んでいると、明治維新の際の教育方針が近年まで存続していることを危惧している文言をよく見かける。欧米列強に追い付こうとしていた時代の知識を詰め込む教育が、今の欧米列強と対等になり新たに自前で知識を生み出す今の時代に適合していないという問題は、近年よく語られる議題の一つだろう。要は、ゼネラリストとスペシャリストのどちらを育成するか。さらに言い換えれば何事もそつなくこなせる人間と、特定の分野においてたぐいまれな能力を発揮する人間、どちらを優先するかという問題である。この問題はかねてより議論されており、もはや正解はないに等しいとも思える。実際、私もこれに白黒した答えはないと思うし、どちらの能力のベクトルも重要で、社会に欠かせないものだと思う。しかし、あえて言うならば、私はゼネラリストよりもスペシャリストを現代社会でははぐくんでいくべきだと考える。

 第一に、なぜゼネラリストはスペシャリストよりも優先度が比較的低いのか?それは技術の発展の影響だ。現代社会を生きていれば、必ずどこかでロボットやAIと触れ合うことがあるだろう。いまや彼らは、スマホやパソコンなどに入っているソフトウェアとして、又は飲食店や工場などでハードウェアとして目に入らない日はないほど栄華を極めている。なぜここまで、ロボットたちは発展できたのだろうか?それは極めて優秀なゼネラリストになりうるからだ。その前に、まずゼネラリストとスペシャリストの違いについて語っておこう。ゼネラリストとはまんべんなく広い範囲に精通しているが、これといった長所はない、いわばすべての科目で80点を取るようなものだ。それに対してスペシャリストは、特定の科目だけ150点を取るような、いわば一極集中型だ。ここで話を戻すと、ロボットは人間のゼネラリストを超越したゼネラリストなのだ。ロボットは人間と違って再設計をしたり、プログラムを見直せばすぐに別の仕事に順応できる。しかも彼らは人間以上の働き者だ。人間がせっせと働いて80点をとっても、彼らは素知らぬ顔で90点100点、ロボットによっては120点と人間以上の高得点をたたき出すだろう。もちろんその分経費が掛かったりするが、それでも成績だけ見れば人間よりも優秀なことは明らかだ。そうなれば、むしろ特定の分野で150点を取れる専門家に重きが置かれるのも当然であろう。当然のはなしだが、すべてにおいて150点を取れる完璧なゼネラリストはそうそう出現しない。もしそのようなゼネラリストが出るとしたら、ロボットは170点180点を取るように進化した未来の時代のはなしだろう。スペシャリストはその点、確かに一人では一分野しかカバーできないだろうが、多くの、そして一定数出現するスペシャリストが集まれば、その極々まれな完璧と言えるゼネラリストとも対等に戦えるのだ。繰り返し言うが、完璧なゼネラリストなど相違ない。もはやこの現代社会では、ゼネラリストという中途半端な数字では生き残れなくなっているのではないか?

 第二に、現代社会での産業は、数年前とは比較にならないほど知識や技術が必要とされるからだ。現代の経済は、様々な要素が複雑かつ高度に絡み合っている。一昔前は籠を編んだり、鍬を振り下ろしていたような労働が、黒船が来訪し、富国強兵が叫ばれて、そうして今に至ってみればパソコンなどの電子機材の操作にデータの管理作成、プログラミングなど、様々な専門的能力が必要な労働に移り変わってきた。専門家、つまりスペシャリストの時代が黒煙と共に来訪したのだ。それに伴い、教育体制も変化してきた。寺子屋から学校へと変わっていったのだ。学校といっても一言では語れない。昔は高校にまで進学していれば優等生、知識人としてもてはやされたが、現代社会で高校に行ったと声高らかに叫んだとしても、帰ってくるものは何もない。それどころか、大学に行っていない人間と劣等生のレッテルを張られることだって起こりうるであろう。それは、世の中で求められる能力が中卒レベルから大卒レベルにまでこの百数十年で大きく変わったことを表している。能力や技術が、百年前からは想像もできないほど上がってきている。もはや人類の進化のスピードはついていけていないのだ。すべてに精通するなどできないほどに。ゼネラリストスペシャリスト云々以前に、我々には、スペシャリストしか道が残されていないのではないだろうか?

 最初に書いた通り、ここまでスペシャリストに関して云々かんぬん語っておきながら、結局のところこの問題に白黒ついた判決はないのだと私は思う。専門的な知識を持っている人間ばかり集まったところで、それぞれがバラバラな方向に勝手に進行していったら意味がない。まとめ役が必要である。それに80点にしか見えない景色がある、つまりゼネラリスト特有の視点もあるだろう。多角的な視点の重要性が問われる時代に、この要素はかなり重要さを増すであろう。人類は一人では人“類”とは言えない。集団でいるからこそ、人類と呼べるのだ。人間は、地球上でもっとも社会性が高い生き物だろう。そのためはるか昔、何万年前から徐々に文明を築き上げてきており、指数関数的な、爆発的ともいえる発展を経て今に至る。その間、もちろん人類はそれぞれの個体が自分たちの生活をすべて補い、発展していったわけではない。農民や狩人、漁師は人々に食料を提供し、大工や職人は住まいや日用品を提供した、木こりや坑夫はそれらの人々に建材を提供し、漁師や貴族、王族や摂政などの役人らがそれを管理した。人々は集団としてだれかを支え、逆に支えられてきたのだ。

その基本は現代でも変わらないだろう。むしろ、現代の社会では、これまで前述した理由でよりスペシャリストな人材への需要が高まっている。医学のスペシャリスト、行政のスペシャリスト、物流のスペシャリスト、労働のスペシャリスト………世の中は、大きなことであれ小さなことであれ、スペシャリストになる必要が出てきているのだ。多くの人がスペシャリストになって、人類という集団で見た時に。ゼネラリストになっているべきなのだ。皆で150点を取っていけば、人類は完璧なゼネラリスト、150点を取るゼネラリストへと昇格できるのだ。