記憶と死
   小5 わかば(akahime)  2025年7月1日

 「ちょっと待ってよー!」

私の家にはペットが2匹いる。1匹目は、金魚すくいでとった金魚である。2匹もらったのだが2ヶ月もしないうちに溝に詰まって死んでしまった。しかし、私はあまり悲しくなかった。多分それは、その金魚と関りが少なかったからだ。短い間だと、何かしたこともない。長年飼うと何かやることが増えるのかというとそうではないが、たった2ヶ月で死んでしま多金魚よりは、愛着がわくというものだ。『金ちゃん』と、自然と呼んでいた名前も、今はしっくりときている。さて、もう1匹のペットについても説明しよう。ウサギのブランだ。性別はオス。一文のみのキャッチコピーをつけるなら、『食いしん坊ウサギ、ブラン!』だ。好物は、パセリや大葉で、少し大人の味のものが多い。ちなみに私はそれらがすべて嫌いだ。ミントの香りは好きだが、食べろと言われたらためらってしまう。この作文では、そんなブランについて感じたことを書きたいと思う。

 私はブランを飼うまで、食いしん坊の基準があまり理解できなかった。しかし、食いしん坊とは、普通の量を食べる動物(人やウサギも含まれる)がおなか一杯になる量と同じ量を食べたとき、少ししかおなかにたまらなく、さらに何杯も食べることができる動物のことを指すということが、私の中での食いしん坊だ。ブランには食に関して少しおかしなところがある。ブランは、あまり目も鼻も耳もあまりウサギの中ではよくないほうに感じる。しかし、私が窓から庭に出ると、ブランは庭に葉っぱを取りに行ったのかな、と私に期待はじめる。そして、その後私が台所へ行くと、葉っぱを洗ったんだ!と確信をもって見てくる。そのアピールに私は勝てない。足を動かすたびにブランも私が動いている方に体を向け、まだくれないの?という目で見つめてくる。でも、私的には確信を持っているなら、急がせる意味はないのではないのかと疑っている。ブランは目も見えにくそうなのに、なぜそんなに私が庭等に向かっていることに気が付き、耳が悪そうなのに台所で洗っていることに気が付くのだろうか。それはある意味で素質と呼べるかもしれない。ブランは食いしん坊というだけ、ご飯を食べる。私はそのたびにその小さな体の中に、大きな底なし沼でも入っているのではないかと感じてしまう。母が、ブランの体についた、もう抜けた毛を取るとき、ブランの体から、ブランの毛でできたボールが出来上がるほど出てくる。しかし、あまりスマートになったようには思えず、もっと時間をかければどれほどの毛が出てくるのか少し気になる。前飼っていて、死んでしまった小麦というウサギとわ大違いだから、さらにそう思うのかもしれない。小麦ちゃん(オス)は、小食で、好きなものばかり食べていた。でも、きれい好きで、日ごろから自分で毛を抜いているので、母がとってもあまり、毛は出てこなかった。そんな小麦ちゃんが死んでしまったとき、私はすごく悲しくなった。もう会えないことが信じられなかった。でも、小麦ちゃんのことは今でも思い出せる。それに、動物が死ななかったら、寿命の時間、大切にしてあげようとは思えないから、寿命は必要なものだと思った。

 母は、昔インコを飼っていたことがあるということを知っていたので、死因を聞いてみた。すると、死んだ姿は見ていないといわれた。それは、母の母、つまり私の祖母が、インコのゲージの扉を開けたままにしており、たまたま窓も開いていたため、外へ出て行ってしまったらしい。一人では生きることのできないインコは、きっともう死んでしまっただろう。私は、もっとインコと楽しむことができたのに、その分の寿命を無駄にしてしまっていると感じた。そういえば、『死』について、ある物語の本で、読んだことがある。ペットは死んでしまっても、心の中で生きていて、忘れなければずっと、遊んでいられると書いてあった気がする。確かにその通りだ。私は小麦ちゃんを忘れていないから、思い出せるし、遊んでいられると思う。

 動物の寿命は決まっているけれど、それまできちんと大切にして、たくさんの思い出を作っておけば、死んでしまっても、思い返すことができるし、死ななければ、生まれもしないということが分かった。

「パセリだよー。ブラン。」