余裕は大事!
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年月日
物事を一所懸命にやることは本当に大切なことだ。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むき出しの表情を私は好まないのだ。闘志は表面に出さず、内に秘めておくものこれが私の美意識だからだ。「一心不乱」も素晴らしいのだが、「盲目的ないちず」も困るのだ。「主人公」が目覚めていなくては、お話にならない。。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないか。つまり「余裕」。例えば肝心なのは自分のしたいことを楽しむことだ。言えば、自分の好きなことをして、楽しむのだ。それに、機械の遊びと言う場合の遊びのような「余裕」「余地」、「遊びの時の間」のようなひまが大切だ。子供の天職は遊ぶことだ。たっぷり遊ぶのが役目だ。しかし、部活だの受験勉強だの、塾通いだの、全て強制、半強制の枠の中で、セカセかした生活をしている。小学校、中学校、高等学校をこのように過ごせざるを得なかった学生達をみていると、私は、一大教師として悲しくなるのだ。英米文学コースを志望する学生は面接をする。その時あれこれ質問をすると、大学へ入ったけど自分が何をしたいのかわからない。英米文学コースに所属したいらしいが何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら文学作品などほとんど読んだことがない。など最近は幼稚さが目立つ。
僕にも似た話がある。それは勉強についてだ。僕はその日チェスをやりたくて、z会をやったらDuolingoのoオスカーとチェス。宿題が終わったらまたまたチェス。漢字が終わったらまたチェス。というように次々と勉強をやってからチェス。と言う流れで勉強をやっていった。するとなんと珍しく本当に珍しく、ゲームをやった後時間が余った。同じようにタイピングをやってから勉強をやってと進めていくと時間が余ると言うほどではないが、晩御飯の時間を遅らせなくて済む回数が増えた。また遅らせるにしても三十分などではなく、五分などで済むようになった。それにあまり疲れずに勉強を終わらせることができた。
次はお母さんの話だ。お母さんは、大学受験をしていた。そして言いたい大学に受かるため毎日一生懸命勉強をしていたそうだ。しかし、毎日勉強をしすぎたせいで自分の目的を見失ってしまった。つまり「私ってなんで勉強してたんだっけ」と言う状態になってしまったのだ。こんなままでは勉強なんぞできない。そう思ったお母さんは一度本を読み、リラックスしてみたそうだ。そうすると、自分は大学受験に受かるため、勉強をしていると思いだせたそうだ。
人間にとって余裕とは、集中するため、正常にあるために必要なことである。余裕がなくなると疲れやすくなったり、何をしたいのかなんのためにやっているのかが分からなくなる。