手助けによる影響
   中2 りょう(akataro)  2025年7月1日

 「ありがとうございます。」日常的に飛び交っている言葉である。何かをしてもらった時などに「感謝」や「敬意」を示す言葉としてよく使われる。僕たちは幾度となく「誰かのおかげ」で何かを成し遂げることができたという経験があると思う。それは全て、「手助け」によるものであるということは言うまでもない。孟子と荀子による性善説や性悪説が存在するが、それらにも繋がってくることだと思う。些細なことでも、手助けをすることによって「人の役に立つ」ことができるのである。

 まず初めに、手助けは善い行いだと思う。そもそも、手助けは善意によってなされる行動であり、決して「悪意」をもって手助けをしている人はいない。例えば、電車に乗っているときに僕に席を譲ってくれる人がいる。悪意がないのは言うまでもないが、譲られた側も譲った側も心が温まる一場面となると思う。もともと車両に「優先席」という席があるものもあるが、そんな紳士的な人を見ると、「日本」という国が平和であることの象徴のように思えてくる。このように「手助け」には、人々の心を浄化し、平和にする力があるのである。

 しかし、手助けをするとかえって相手にとって迷惑になることもある。例えば、相手の荷物を持つときに「荷物持ちましょうか。」と尋ねるのが「セオリー」だと僕は思う。仮に無言で相手の荷物を持って行ったとしよう。相手は「自分の荷物を盗まれた。」と咄嗟に思うのが普通だと思う。自分が盗んだつもりではなくても、もし相手がそのことに対して訴訟を起こせば、裁判には負けてしまうだろう。そういう残酷なことになる前に、相手の同意を得てから行動に移すことが大切である。

 総じて、手助けをすることは善い行いであるが、かえって相手にとって迷惑になることもある。しかし、「誰かの成功を手助けする時、あなた自身の成功も早まる。」という松下幸之助の名言があるように、最も大切なことは「一挙両得」、つまり手助けをすることで自分自身も相手も心が浄化されることである。何事も、「様々な場面」に対応していくことがとても大切である。必ずしもこれらのことが起きるわけではない。その場その場に応じた手助けをする必要があるのである。