そこをなんとか
   小5 ともとも(tomotomo)  2025年7月2日

日本人は義理人情に絡まれてどんな明白な拒絶の理由があろうと、相手に熱心に頼まれたらそれをむげに断るのは、何か気がひけるように思ってしまう。「そこをなんとか」という表現の中には、すべては完全ではないことや、お互いにいくばくかの部分が必ず保留されているということが前提にある。日本の芸術も余白があり、作者と鑑賞者が双方の「せめぎあい」にかかっている。

 僕が7月にドイツのデュッセルドルフにきて、初めて家の近くの日本の食材やおやつを売っている松竹というスーパーに行った。そこで父が、「3ユーロ以内で自分が好きなお菓子を買っていいよ。」と言った。3ユーロは日本円に替えると516円で、日本だと十分に自分の好きな美味しいお菓子が買うことができるので、とても嬉しかった。しかし、ドイツのスーパーにある日本のお菓子は、輸入したものなので日本で売っている値段と比べるととても高い。例えば僕の好きな「ぷっちょMEGAソーダ」というお菓子は、2ユーロで日本円に替えると344円もする。困った妹と僕は、父に「予算を5ユーロまで上げて欲しい。」と頼んだ。初めはだめだと断られたが、「日本のおやつが高すぎるから『そこをなんとか!』」とお願いした。すると父は、「それじゃあ、今月、自分の好きなおやつを買うために、5ユーロあげるよ。」と言った。この文章を読んで、今振り返ってみると、まさにお互いにいくばくかの分が保留されていることを前提に話し合うことができたなと思う。

 母が高校3年生の時、大学受験の日に大切な受験票2枚のうち、1枚を持っていくのを忘れたことがあったらしい。家から2時間かかる大学で、途中の電車の中で忘れたことに気が付いたけれど、家に戻ると試験の時間に遅れてしまって受けられないので、そのままひやひやしながら大学の受験会場は向かった。そこで試験管の先生に「受験票を家に忘れてしまったのですが、それでも受験させてもらえる方法はありませんか?」と先生にどうにかならないか必死でお願いしたそうだ。先生は「受験票が家にあって、試験が終わったらすぐにFAXで送ってくれるなら、受験できますよ。」と言われたらしい。母はそして無事その大学の試験を受けることができたそうだ。それなのに母は受験できたことに安心して、のんびり夕ご飯を外で食べていた、先生から電話で「いつになったら受験票をFAXしてくれますか?」と聞かれ、あわてたらしい。

 僕はこの文を読んで、抜け穴があって助かることのあるけれど、日本人は外国人から見ると、あいまいだなとみられることがありそうだなと思うので、僕は日本人もノーと言える心も作ったほうがいいと思いました。