学びの意味と生きる意味
中3 あいたぬ(aitanu)
2025年7月2日
この前まで梅雨だったというのに関西では梅雨が開け、いよいよ夏に入るといったところである。そんな暑い日差しの中、僕は車で涼みながら昔のドラマ「女王の教室」を見ていた。ちょうど正午を迎える頃ぐらいに目的地につき、続きが気になるが泣く泣く車を降りた。その後、僕が中心となって開催するイベントの準備をしていたのだが、やはりどうしても気になってしまった。なにせ車を降りる直前に画面の向こう側から問いがとんできたのだから余計に気になってしまう。「なぜ人は学ぶのか」難しい問いだ。たとえ、たくさん勉強したとして大きな会社に就職したとしても、稼げるかどうかすら怪しいし、それは人間が学ぶ根本的な理由ではないような気がする。なにか参考になりそうな、つまり自分の本能で学ぼうとする人はいないだろうか、と考えているとちょうどいい存在を見つけた。子供である。まだ社会経験の少ない子供は、その僅かな経験と自分の中にある感覚だけで動く。赤ん坊がよく泣くのも本能的に危険を察知しようとしているのかもしれない。さて、そんな話はおいておき、僕はちょうど幼稚園児から小学三年生あたりまでの子供に関わる機会がある。僕は虫仲間を集めて、関西中心に「ぼくらの虫展」というものを開催しており、そのイベントにちびっこたちがわんさ来てくれるのだ。ということで少しイベント内で様子を見せてもらうことにした。その後観察を続けてみて気づいたことは、子供は本能的に自分の知らないものを知ろうとしていること、そして高学年になるに連れそれを「理解できない物」として遠ざける者がいることがわかった。恐らく、小さい頃に虫に触れる体験が少なかったり、何かのトラウマがあったりするのだろう。もともとこのイベントは近年問題になっている「体験格差」をなくすために始めたものだから、ちゃんと現状がわかってよかったと改めて思った。とはいえこの結果では「学ぶ理由」が全く持ってわからない。これではどのように生きるかの設計もできない。どうしようか迷った末、僕は逆のルートで結論をだすと決めた。
具体的には、生き方を決定するそのプロセスの中から学ぶ意味を見出すのだ。
今すぐにでも結果を発表したいところだが参考文献があるので少し除いてみようと思う。
まず流れとしては創造性とはなにか、について言及した後フランスの研究者の名言を解析し、最終的に「逆境を自分の人生のかてにできる人が創造性を持つ」と考えている。
一見、今回の内容には関係ないように思えるが逆境は世界を知るきっかけ、つまり「学び」として捉える事ができる。もう少し深く考えることができそうだ。
というわけで、もともと話題にしていた「生き方を探す生き方」から人々が学ぶ理由を考えようと思う。まずこの生き方に、必要なことをあぶり出してみようと思う。
結果的に2つになった。一つは小説や説明文、映画などの文学作品にたくさん触れることである。文学作品には作者の人生経験や感情が影響されることが多い。つまりたくさんの文学作品に触れると、色々な生き方、考え方が自分の中に残り、この先進む選択肢が増えるのだ。もう一つはできる限り人にあって話すタイミングを増やすことだ。ここではリモートワークで話すというパターンは含まれない。理由は1つ目の理由と関係している。1つ目の理由は、作者の人生を抽象的に捉えることができる方法だ。作品からにじみ出た作者の一部を掠め取って顕微鏡で見ているようなもの。しかし研究には一部ではなく、全体が欲しいときもある。やはりそういうときはお話しながら、学んでいくしかないのである。このように具体と抽象をうまく活かしてどのように生きるのか考えるのをサポートしてくれる地図を作るのだ。そうすれば自然に点と点がつながっていき、一筋のルートに乗っていくのだ。
しかしこの方法は危険すぎるところがある。言ってみればこの方法はダンジョンを攻略するときにどこから敵が来るのかもわからないままペンだけ持って地図を書きながらふらふら歩いているような状態だ。最初から地図の正規ルートを通って真っすぐ行ったほうが安全だし、時短できる。だから最初から人生の目的は定めておくべきだという意見の人も多い。それはたしかに理にかなった意見ではある。しかし、単色だけで描かれたキャンバスよりも互いの良さが混じり合ったキャンバスのほうが個性的で、ずっと魅力がある。人生もキャンバスのようなもので曲がり角や分かれ道、時には大量のインクが落ちてくるような事件があったほうが、面白いと僕は感じる。
色々考えてみたものの、やはり得られる答えは「本能的に」というもののみだった。しかし、よく考えてみれば、「学ぶ理由」なんてものはないのだとよく分かる。我々は人生そのものが学びなのだから、理由とかそれ以前に僕達は学んでいるのだ。なぜを追求することはたしかに大切なことではあるが、時にはこうやって原点に回帰した答えにたどり着くこともあるんだと思い知らされた。帰りの車から見た景色は夕日の色に染まり、行きに見た景色とは少し違って見えた。