ジェネラリスト社会
   高2 ばにら(tokunaga)  2025年7月1日

共同体の構成員として、ジェネラリストかスペシャリスト、どちらの養成を重視するべきだろうか。スペシャリストはその名の通り、一つの分野に特化した専門家である。一極集中型の技能を持っているからこそ、特殊な個別状況に心強い。対してジェネラリストは、日常的に求められやすいタスクを浅く広く行う窓口だ。この二種はどちらもコミュニティの運営に不可欠な存在であるが、その比率調整によって、個人と社会の関係性は変化する。例えば、ジェネラリスト育成を重視する日本社会では、円滑に物事が進むことに細心の注意を払い、よって各人の個性よりも組織の協調性が尊ばれる傾向にある。この場合、個人は集団の一歯車であり、その能力は均一である方がより効率的だ。しかし、このようにジェネラリスト的な日本社会のあり方には、しばしば批判が寄せられる。その主な原因を以下に二つ考証する。



第一の原因として挙げられるのが、日本社会の没個性的な性質である。ジェネラリストの比率が高い集団内において、確固たる「個」の確立は難しい。というのも、広く浅く物事をこなすためには、苦手分野の克服が最優先である。すると、同じ技能を持った人間が大量に育成されることになる。しかし、人間が強く自己を認識するには、まず他者との卓越化が必要だ。ゆえに、能力の均一性を求める組織において、個々の個性が埋没するのは必然である。

それを如実に表しているのが日本の公教育だ。校則や制服などの目にみえる文化だけではない。一番顕著だと思われるのが、生徒の特別扱いを極力避ける方針である。これは生徒間の平等性を担保するものであるが、同時に一生徒の能力や必要に見合わない対応を強いることにも繋がりかねない。例えば、他の先進国では一般的である飛び級制度の不在、また特殊な需要を有している生徒への個別対応の難しさなどが挙げられる。私自身、フランスの公立中学校に在籍中、毎日二時間登校が音楽受験の準備期間に調整されたが、日本の公立学校ではこのようなことは認可されないであろうことが容易に想像できる。

かくして、組織内の均一性を求めるあまり、日本社会は各人の能力がむしろ発揮されにくい構造になってしまっているのではないか。平等は重んじられるべき理念であるが、平等が公平を侵害するのは本末転倒だ。それぞれの特性を公平に審査し、それを十分活かせる環境を与えることこそが、日本社会を活性化させる鍵であると主張する。



第二の原因として考えられるのが、集団優先による閉塞感や圧力である。秩序が乱れることを恐れるあまり、過度な社会的要求に個人を遵守させる構造が作られてしまうのだ。例えば「社会人として」という枕詞で表される労働者としての理想像へのプレッシャーや、「会社のため」と理不尽な命令に泣き寝入りする事例は、日本社会に深く根付いた課題の発露である。

母が会社員として働いていた時も、すでに予定を組んでいたのにも関わらず、急に週末に会社の予定が入ることがしばしばあったという。「代休をやるから」と言われても、個人の都合については一切の配慮はなかった。別の職場でも、「喜んで仕事をしているなら、残業も嫌ではないはずだ」と言われ、サービス残業が横行していたらしい。この手の話は日本ではよく聞くだろう。だが、このような組織内の横暴に従わざるを得ない空気感が蔓延し続ければ、労働者の環境はますます悪化してしまう。

こうして、組織の運営や規律を優先するあまり、個人を軽んずることは、結果的に社会問題を冗長することにつながる。だが、同程度の人材がいればいるほど、一人の労働者がいなくなっても代えがきく、という思考が働き、この問題はおざなりになってしまう。ゆえに、行きすぎた集団主義を是正するためには、社会人としての「理想像」を自由化し、それぞれ固有の特性を持った個人を育てる必要があるのではないか。



以上の主な原因により、日本的なジェネラリスト人材の養成は批判に晒されている。確かに、日本の経済大国としての成功や、社会生活を営む上での安定性と秩序も、この性質に依拠することは事実だ。また、教育課程においては、満遍なく能力を伸ばしながら、生徒に選択肢を多く残す方針は、むしろ良いものであるようにさえ感じる。しかし、この裕福な先進国で、治安も世界でトップクラスに良い国に住む日本人の幸福度が、数値上は悪い成績を出しているスペインやメキシコより低いのは大きな問題だ。それが労働環境や社会的圧力に起因することは言うまでもない。自由なくして喜悦なし、しかし秩序なくして持続なし。社会の安定と個人の幸せ、どちらも不可分の関係にあるからこそ、このバランスを注視する必要を強く訴えたい。