手助けはよいか
   高2 とやさく(toyasaku)  2025年7月1日

 登校中に、私が利用する駅の近くで老夫婦にコーヒーショップの場所を尋ねられたことがある。私はその店に一回行ったことがあるので、道順を快く教えることができた。そして、店の場所が分かりづらい位置にあることは知っていたので、途中まで一緒に彼らと歩いて道を教え、手助けをした。

 手助けは良いと私は考える。なぜなら、時間を有効活用することができたからだ。高校一年生の夏休みに行われた文化祭準備で私は衣装制作の担当になった。制作班の活動が遅れたこともあり、すべて完成することが難しいほど大量な衣装制作の仕事が与えられてしまった。私は毎日宿題を進めなければならない、そして週五日以上ある部活動で練習をしたい気持ちがある。このままでは衣装を文化祭本番までに終わらせることが不可能であるため、洋裁学校に通っていた祖母の手伝ってもらった。無事、夏休みが明ける前に衣装は完成し、クラスに迷惑をかけずに済めた。祖母の助けがなければ、衣装が出来上がるどころか、私の宿題が終わらなかったであろう。このように、手助けによって私はやらなければいけないこととやりたいことの両立が叶った。

 一方で、手助けが必要ないこともある。なぜなら、よかれと思って助けたが、相手にとっては迷惑なときもあるからだ。私が小学生のとき、図工の授業で木材の作品に絵の具で色塗りをしている際、先生が急に私の筆を上からかぶせるように持ち、私の作品に色を塗った。先生はこうすると色ムラなくきれいに塗れてよい、と私に伝えたが、私が一生懸命手をかけていた物に断りなく修正をかけられてとても迷惑だった。このような空回りになる手助けをされた私の友人は、この出来事で意欲がなくなり美術が嫌いになってしまった。手助けが迷惑になり、助けた相手のやる気をそぎ落としてしまうこともある。

 確かに手助けには良い面も悪い面もある。しかし、手助けには相手を思いやって行動することが大切であると私は考える。「人に魚を与えることは、魚の取り方を教えるのに及ばない」という老子の名言があるように、相手の立場にたって、どういう心理状態か、相手にとって必要な自分の行動は何か予測しなければならないからだ。予測した結果、手助けをするにしてもしないことにしても、相手のために思いやることができていれば、その行動は正解なのではないかと考える。