意義のある手助け
中2 あかるら(akarura)
2025年7月1日
手助けは人間が生きていく上で最も大切なことである。相手を助けることは思いやりや協力、相手の気持ちの理解など相手と良い関係を築くことに重要なことを多く学べるからだ。誰にでも誰かを助け、誰かに助けられた思い出があるだろう。このように社会は手助けの連続で成り立っているのだ。
確かに手助けは良いと考える。人間にとって社会で「役に立てた」と思えることも助けてもらえたことに嬉しさや喜びを感じられることも、自分と相手を認め合うことのできる大切な経験になるからだ。私の学校ではボランティアの部活動があり、校内全体がボランティア活動に積極的だ。昨年、私も地元のイベントのボランティアに初めて参加したが、手助けをすることの喜びと大切さ感じることができた。会場見守りの立ち仕事や景品の受け渡し、販売業務を通して、スタッフや地元のお客さんからの笑顔や「ありがとう」の一言の喜びを感じた。しかしこのボランティア活動で経験したのは手助けの喜びだけではない。助けられる喜びも知ったのだ。私にとって今回初めて参加するボランティア活動は、経験のあるスタッフの方々のカがなければ達成できなかったことも多かった。例えば景品渡しの際は大勢のお客さんに対し配布がスムーズに進まず困っていると、隣のスタッフの方がコツを丁寧に教えて下さり、効率よく対応することができた。誰かへのボランティアは別の誰かの手助けによっても支えられていると思う。このようにして人助けの輪が繋がっていくのだろう。
一方で、手助けが必要ないこともある。全ての人が常に助けを必要としているわけではないからだ。国語の授業でバリアフリーや障害者について学ぶ機会があった。その中で印象に残っているのは「支援を必要としない障害者もたくさんいます。」という言葉だ。体に不自由があることで不便さを感じるのではないかと思い、どんな時でも障害者を助けることは当たり前だと思っていた私にとって、この一言はとても意外なものだった。その理由は、人間は根底に自立への思いがあるからだ。障害者の立場からすると、時として手助けがお節介と感じることがある。中には障害者用マークの使い方を工夫し、困ったときにはマークを見せ、助けが必要のない際にはマークを見えない位置にしまうという自分なりのサインを出している場合もあるという。私達は完全に相手の立場に立つことはできない。しかし、相手の考えを考慮し支援をすることはできるのではないか。
手助けには良い面と必要としない面の両面がある。しかし最も大切なことは自己満足で終わらないことだ。「自己満足とは、人間が自己自身および自己の活動能力を観想することに過ぎない。」というミシェル・フーコーの言葉がある。相手がいる以上、「してあげた」に陥るのではなく相手の気持ちに寄り添い思いやりを持って対等に振る舞うべきなのだ。