あいまいな言葉
   小5 わかば(akahime)  2025年7月2日

 『そこをなんとか』という言い方は極めてあいまいである。『そこ』とは何をさし、『なんとか』はどういうことなのか。しかし、外国人が理由を挙げて頼みを断る場合は、『だから、私はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない』と言うため、それ以上頼んでも応じてくれる余地はない。一方で、日本人のノーは決して絶対的な否定ではなく、その一部にイエスを含み、イエスはその中にノーの要素をあわせ持っている。

 私は、あまり友達や家族とショッピングへ行くことは少ない。友達といっても、特別に親しい人しか一緒に行くことはない。そのせいでお買い物に慣れていないためか、私は推すすめに弱い。店員さんがある商品のオススメをぺらぺらと説明し始められると、相手のペースに巻き込まれ、お店を出たときには、商品を持っている。オススメを言われると、自然と買わないといけないような気がしてくるのだ。普段私はそんなことがないように、ショッピングに関しては、他人の言っていることに耳を傾けず、自分がよさそうだと思うものを買っている。しかし、友達と行くとなるとそううまくはいかない。店員さんよりさらに断りにくくなってしまう。友達と前一緒にダイソーへ行ったときのことだ。その子はダイソーの商品についてとってもアツく、炎が出そうなほど力を込めて力説をしてくれた。でもそれは、有難迷惑というものだ。私はその商品があまり良いものだとは思えず、なんといえばいいのか分からない。私はその友達がだいぶ好きで、仲良しだったので、わざわざ関係を壊すようなことは言いたくない。そんなことを考えているうちに、いつの間にか私は

「たしかに・・・!結構役に立ちそう。」

と答えてしまっていた。すると友達の熱はさらにヒートアップしてきた。後悔したが、それも後の祭り。話を合わせているといつの間にかその商品を買うことになってしまった。まるで商品や店員はスライムみたいだ。そして、買う側の私たちはボール。ボールが少し興味を持ち、スライムへ飛び込むと、スライムがボールにまとわりつく。ボールは死に物狂いで奮闘するが、効果は無く、やっとスライムを脱出したころには、スライムのべたべたが体にくっついている。とわいえ、ここまで店員さんを悪く言ってきたが、私たちの暮らしが成り立っているのは店員さんのおかげだということは絶対に、忘れてはならない。失敗してしまったときには友達に『そこをなんとか』と頼み込み、助けてもらうのも毎度のことだ。人はだれでも、人を喜ばせようとするらしい。人が困っているのを無視すると、心の中の良心がちくりと痛むのかもしれない。その結果イエスは言いやすいのに、ノーがなかなか言えなくなる。

 英語と日本語で表現がだいぶ違うように、文化にも違う点があるかもしれないと思い、イスラムについて調べてみた。その時に気になったのがモスクだ。モスクは日本で言う寺のようなものだが、日本と比べ圧倒的に派手だ。内部には白い場所はあるが、そこには模様が必ずあり、『空白』とはいいがたい。天井にはタイルでできたような飾りがある。青や緑、赤や黄色等の派手な色で作られており、日本人の私から見るとあまり神聖さを感じられなかった。でも、空白を作らないということにはっきりとしたノーという意志を感じた。母に『そこをなんとか』という言葉をいつ使うか聞いてみた。すると、仕事が遅れたときや、私が病気の時だそうだ。病院がもう閉まっていてもその言葉を使い、お医者さんに診てもらっていたらしい。まるで、『そこをなんとか』は、魔法の言葉のようだと思った。けれど、お母さんがいうには違うそうで、そのせいで、相手を残業させたり、必要以上の労力を使わせてしまったりするそうだ。

 日本人の言葉はあまり直接的ではなく、オブラートに包んである。しかし、相手を傷つけてしまわないために使った物言いが、逆に自分の危険になったり、他の人を大変にさせてしまうかもしれないということが分かった。でも、私はいやなことにはノーというけれど、なるべく人にやさしくしていたいから、その場に応じて判断していこうと思った。