曖昧な言葉
小5 ゆい(akakiyu)
2025年7月2日
強いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶なさるが、その理由をもう一度考え直して、私の要求に応じてくださるまいか」とでもいう他あるまい。ところが、日本人は義理人情にからまれて、どんなに明白な拒絶の理由があろうと、相手に熱心に頼まれたらそれをむげに断る場合は「だから、私はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たる立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくら頼んでも、応じてくれる余地はない。「それをなんとか」することにより、日本の芸術も、その価値を決められるわけである。
塩原林間学校の班長達が班を決めることになると、友達と私が班長の時、班がなかなか決まらなかった。なぜなら、お互いずっと譲り合っていたからだ。私が、
「余った班でいいです。」
というと、友達が
「私も余った班でいいです。特に希望はないので。」
と言う。その結果、なかなか決まらないのだ。結局友達が班を言って私が余った班になった。アメリカ人など外国人は、はっきりと「NO」や、「YES」というので相手が譲ることはあまりない。それに比べて日本人は、「譲り合う」ということができていると思う。だが、どちらにも欠点はある。例えば、私はピアノを習っている。そして私のピアノの先生が急にこう言い出した。
「ねえ、今年初めてピアノのコンクールに出てみない? コンクールはいい経験になるよ。」
といいはじめたのだ。本当はコンクールになんかでたくなかったが、四歳の時からずっと教えてくれている先生に言われると、断るのはなんか気が引けてしまう。なので、しぶしぶ
「はい。出てみます。」
と言った。このやりとりを行ったのは四ヶ月ぐらい前だが、時がたつのは早い。ついにコンクールは来週となってしまった。私はピアノの練習をまるでピアニストにでもなったかのように、何時間も練習している。このように、本心はコンクールにでたくないのだが、先生に断るのは気が引けてしまい、結局コンクールに出る事になってしまう。だが、私もでたくはなかったが、いい経験にはなると思う。もし私が外国人だったらはっきりと「NO」というと思う。だが、はっきりと言いすぎると、相手を傷付けてしまう場合もある。言葉の扱い方は難しいものだ。
日本の絵画では、「余白」を使う絵がある。例えば、葛飾北斎の絵なども「余白」がある。なぜ、日本のかいがでは「余白」を使うのか調べてみると、江戸時代、土佐派の絵師である土佐光起は『本朝画法大伝』という絵画について書かれた書物の中で、余白のことを書いている。「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」と書かれているそうだ。これを現代の言葉に翻訳すると、「白紙も模様の一部なのだから、心でそれを補うように見なさい」という意味だ。それに比べて世界の絵はとても空間を埋めている。でも、私は世界の、空間を埋めている絵の方が好きだ。なぜなら、空間を埋めていると、その分見る時間が長くなると思うからだ。余白があると、私だったら絵をパッと見ただけで通り過ぎてしまう。だから、余白がない方がじっくり見れていいのだ。
日本人は、言葉があいまいだったり、絵だと「余白」という美がある。これは世界の人から見ると不完全だが、日本人から見ると、「不完全」は「完全」ということがわかった。