適度な競走
社 らたよ(ratayo)
2025年7月2日
現代の日本社会では、みんなで仲良く、人と比べない教育といった価値観が広がりを見せ、特に教育現場では、競争を避ける風潮が強まっている。運動会での全員一緒のゴールや、順位をつけない発表会など、子どもたちが競い合う機会そのものが減少している。こうした傾向は、確かに子どもたちの精神的な安定を守る一面を持つが、その一方で、努力する理由が見えにくいことや目標が持てないといった声も少なくなく、結果として、全体としての意欲やレベルの低下が懸念される。健全な競争までが否定され、努力の意味が見失われつつあることが問題だ。
この問題の原因は、平等や個性の尊重といった価値観が過剰に強調され、本来必要であった適度な競争まで排除されてしまったことにある。たとえば医療の現場では、全ての患者に同じ治療を施すことが平等であるとは限らない。患者の症状や体質に応じて最適な治療法を選ぶことこそが本当の意味での個別対応であり、公正である。同様に社会においても、一律に足並みを揃えることが本当の平等ではなく、それぞれの努力や成果に応じて適切な評価やチャンスを与えることが、公平で活力ある社会につながるのであると考える。
では、こうした状況を改善するにはどうすればよいのだろうか。例えば医療の現場に見られるよき競争というものがある。医師たちは、患者の命を預かるという責任のもと、最新の知識や高度な技術を日々研鑽し合い、チーム内でも互いに刺激を受けながら成長している。そこには、仲間としての信頼と同時に、技術で負けたくないという健全な競争意識がある。同じように、教育や職場でも、目標に向けて努力を重ね、互いに切磋琢磨できる環境を整えることで、個々の力を引き出し、全体のレベルを底上げすることができるはずだと考える。
確かに、競争はストレスを生み、人を追い詰めるもいう意見にも耳を傾ける必要がある。さらに過度なプレッシャーが心を壊すケースもあるだろう。しかし、訓練されずに育てられた動物は、野生に戻っても生きていけないというように、人は適度な負荷の中でこそ、強さとしなやかさを育むことができる。競争とは、誰かを蹴落とすためではなく、自分を高めるための舞台である。だからこそ私たちは、子どもたちや若者が挑戦し、失敗し、そこから学べるような前向きな競争の文化を再び取り戻すべきなのではないだろうか。このように健全な競争までが否定され、努力の意味が見失われつつあることが問題である。