個性を尊重する
   高1 ヨーヨ(waoho)  2025年7月2日

 最近のいじめの例では、先輩後輩の関係の中ではいじめは発生していない特徴がある。子供に競争で勝つことによる優越感を経験させた方がいじめを減らすことができるが、それを一つの種目ではなく、複合的な組み合わせで競争すべきだ。僕は、自由に競争することの意義を認めるべきである。

 第一の方法として、平和主義ではなく、勝つことの喜びを味わうことだ。もちろん、なにか競争に勝てたときは嬉しい。しかしながら、個人的にあまり競争に対してはよい印象はない。なぜなら、足の引っ張り合いやずるをしようという考えになってしまう人が多く、それは愚の骨頂だからである。そのため、ここで言う「勝つ」とは、誰かを打ち負かすことではなく、自分自身の限界に挑み、それを乗り越えた先にある達成感のことだと考えようと思う。争いを避けることはたしかに安定をもたらすかもしれないが、安定の中にとどまっていては、人は本当の意味で成長することができない。自分で目標を定めることでモチベーションが上がる。その実現に向かって力を尽くし、努力の末に何かを成し遂げたとき、人は深い満足と確かな自信を得る。そのような経験こそが、次なる挑戦へと人を駆り立て、内なる可能性を引き出していくのだ。だからこそ、ただ波風を立てずに生きるよりも、一度きりの機会に全力で挑み、自分なりの「勝ち」をつかみにいく姿勢が、何よりも価値あるものなのではないか。しかし、自分の立てた目標だけでは挫折してしまう人が多いと思う。そこでほかの人と競争し、切磋琢磨することで高みを目指そうと改めて感じることができる。実際に、東京大学の村山昇さんの論文では、競争が人間のパフォーマンスに与える影響について多数の先行研究を統合的に分析し、「適度な競争」は動機づけを高め、学習や成長を促進することが示された。特に、他者との比較が明確な状況では、個人はより集中し、能力を高めようとする傾向が強くなると結論づけられている。僕も、中学受験の時なかなか集中できずにいたとき、学校の友達と図書館で勉強していた。この時、同じ問題を解いて競うということをしていた。これによって一人で勉強するときよりも集中することができたり、このくらいでいいやといった甘えを無くすことができたと思う。このことから、結果を追求し、憎みあうような争いではなく、自らの成長のための選択肢として争うことは重要なのである。

 第二の方法として、能力の多様性を認めることで、個性や自分らしさを導くことだ。その人のことについて、学力だけで測ったり、身体能力で測るのはよくない。人を見る水準にはさまざまあるが、その人らしさや特技や才能というのも立派な個性である。このような風潮は最近になって考えられるようになってきたものの、しっかり根付いているかというとそうでもない気がする。どうしてもまだ学力による贔屓もなくなっておらず、できない人は批判されることも少なくない。僕はたまに旧TwitterのXを見るが、かなり批判のコメントや攻撃的な意見を書き込んでいるという印象がある。これは顔が出ていない状態だから何を言ってもいいという良くない状態であり、形や場所が変化しただけであまり根本的な問題は変わっていないのである。そのような批判の言葉ではなく、お互いのすごいところを見つけあい、尊重することでより良い関係を築けるのではないか。実はこのような考え方は昔もあったと考えている。例えば、戦国時代で活躍した豊臣秀吉は農民の出身でありながら、織田信長にその行動力・機転・交渉力を認められ、足軽から出世してついには天下人となった。これは、当時の常識では武士の家系でなければ出世できない風潮が強かったが、信長は能力を重視して登用した。これが秀吉の個性と才能を引き出す結果となり、多様性を認めていると思われる。すなわち、普通という枠を作らず、それぞれの得意なことについて尊重することが良い社会を形成するうえで重要なのである。

 確かに、平等に仲良くすることも大切だ。しかし、「勝ち負けの先にあるのは、自分だけの価値だ。」というように、私たちは自由な競争の中で、自分らしさを見出していくべきだ。