手助けをする理由
   中2 あきかは(akikaha)  2025年7月2日

 習い事の帰り、電車に乗り込んですぐに、背後の扉が閉った。少し息が苦しかったので、どこかに座って落ち着きたい。5歩ほど先の席が空いていたので、座ろうと歩き出した。すると、自分よりも先にある男性がその席に座り、私が座る場所は無くなってしまった。そのとき、無意識に悲しそうな顔をしてしまったのかもしれない。横にいた女性が、あと1駅だからと席を譲ってくれた。私は、感謝の気持ちももちろんあったが、それと同じくらい、罪悪感を持ってしまった。本来であれば、自分のような元気に体が動く人が積極的に譲るべきだからだ。



確かに、手助けは良い。私が小学校五年生だった頃の放課後、友達と遊びに自転車で公園まで行った。家に帰る頃には既に日が沈みかけていて、空は橙色に染まっていたような記憶がある。景色はとても美しいのだが、私の家に帰るまでには、急な坂という一つの試練があった。当時の筋力と体力では、自転車を漕いでその坂を上り切るのは不可能だったので、手で押して上るしかなかった。しかし、それもとても大変だった。一度休もうかと思ったその時、後ろからある女性が「手伝いましょうか」と声をかけて下さった。私はその方のおかげで、時間をかけずに帰宅することができた。このように、手助けは誰かの役に立つことなのだ。



しかし、手助けは時に邪魔になってしまう。世界には、発展途上国への過剰な援助が、かえってその国の自立を阻害してしまうという事例がある。具体的な国としては、カリブ海に位置するハイチ、東アフリカに位置するエチオピアなどが挙げられる。特に、地元の産業が外国からの資金援助に対抗できず、潰れてしまったり、現地政府がその支援に頼り切ってしまい、自立的な政策を行わなくなってしまったりした。このように、よかれと思って行動に移した手助けも、一時的には「支援」としての意味を持つが、長期的に考えればマイナス面がだんだんと大きくなっていく可能性があるのだ。



手助けは、大抵の場合良い意味を含む。だが、それが余計なお世話となってしまうことも珍しくはなく、実際頻繁に起きていることだ。しかし、最も大切なことは、相手の役に立とうとしているということである。「大切なのは、健康らしい外見ではなく、健康自身である」という言葉があるように、手助けをするかしないかよりも、そこに「その人を助けたい」という優しさが存在していることが最重要なのだ。手助けは常に、誰かのためであるべきなのである。