やれることは何か
中2 あえさし(aesasi)
2025年7月3日
友人は町の中に障害者がいることで、人の流れが変わらない街だった。まる、そして、障害者と自然に向き合う街だった。障害がこの自由をどれだけはばむかは、その時代のその社会が、障害者をどう位置づけ、そのなかねま人と人との関係をどう作っているかで決まる。ユージーンの風は、そのことを私に教えた。
私たちは障害を持つ人に手を差し伸べて行くべきだ。地域の福祉施設で行われたボランティアイベントに参加したことがある。最初は気が進まなかったが、先生にすすめられてしぶしぶ申し込んだ。イベント当日、施設で出会ったのは、車いすを使う小学生の男の子だった。はじめは目も合わせてくれず、会話もほとんどなかった。どう接していいかわからず、気まずい空気が流れていた。だが、一緒に輪投げやお菓子釣りをしているうちに、少しずつ表情がやわらかくなっていった。ゲームで勝ったときには「やったー!」と笑顔でハイタッチを求めてきた。その瞬間、彼の中の「障害者」という枠が、自分の中で崩れていった。彼は、ただ身体が不自由なだけで、気持ちも考え方も自分と変わらない一人の人間だった。むしろ、自分以上に前向きで、素直な感情を表現していた。イベントが終わるころ、彼が「また来てね」と言ってくれた。その言葉が心に残り、自分も少しでも役に立てたのだと実感した。この体験を通して、助けるというのは一方的な行為ではなく、相手と心を通わせることだと学んだ。障害があるから特別にするのではなく、相手の個性を認めながら自然に手を差し伸べる。そんな関係こそが本当の意味での支援なのだと思う。
しかし、障害を持つ人達が自らの力でやり遂げようとする意思を尊重することも大切だ。皆は、パラリンピックで大きく活躍する人々を見た事があるはずだ。手助けが必要な場面もあるが、本人が挑戦しようとしているときには、その気持ちを支える姿勢こそが本当の意味での「支援」だと思う。そのことを強く感じたのが、パラリンピックの選手たちの姿だった。特に記憶に残っているのは、東京2020パラリンピックの車いすテニスで活躍した国枝慎吾選手だ。彼は生まれつきの障害ではなく、病気によって車いす生活となったが、それでも自分自身の力で世界一を目指し、努力を重ねた。誰かに頼るのではなく、自らの可能性を信じ、鍛え上げた体と精神力で戦う姿には、多くの人が心を動かされた。周囲の人間ができるのは、彼のような挑戦を止めず、見守り、必要なときだけそっと手を差し出すことだ。安易に「かわいそう」「助けてあげたい」と思ってしまうのは、本人の意志や努力を見落としてしまうことにつながる。障害の有無に関わらず、人は誰でも自分でやり遂げたいという気持ちを持っている。その気持ちを大切にすることが、真の理解であり、共に生きる社会への第一歩だ。パラリンピックの選手たちは、ただの感動を与える存在ではなく、「支えることとは何か」を私たちに問いかけているのだと思う。
確かに障害を持つ人に手を差し伸べることも、自らの意思を尊重していくことも大切だ。しかし、「寒さに震えたものほど、太陽の暖かさを感じる」というように、難しいことであっても当事者の障害者が生き方や自分のやりたいことに対して挑戦心を持つことだ。その結果、達成感や成長が見られるはずだ。挑戦心やゆりたいことは人それぞれ違っている。私は今やれることは何か考え将来と向き合っていこうと考えた。