テストは不要 清書
中1 あかそよ(akasoyo)
2025年7月4日
中間考査、期末考査、さらには小テストなど様々なテストが学校には存在する。だが、そのほとんどが授業で習ったことや教科書に書いてあることを覚えて書くだけだ。学校のテストは覚えて書く、そして覚えて書く、また覚えて書くというのの繰り返しである。こんなに暗記ばかりをしていて何の役に立つのだろうか、多くの時間を使ってするほどの価値がただ覚えるだけである暗記にはないと思う。ただ覚えるだけのテストに意味はない。それなら辞書で調べたり、ネットで見たりすればよいのではなかろうか。わざわざ使いもしないことを覚えて頭の容量を削って大事なことを覚えられなくする必要があろうか。そのため、僕はテストはよくないものだと思う。
第一の理由に暗記はほとんどいらないからだ。例えば、今日の期末考査の範囲だった、奈良時代や平安時代のいつ誰が何をどうしたという事は今も昔も人がやることはだいたい変わらないから人がやる事の流れぐらいは覚えた方がいいかもしれないが、710に平城京ができて743年に墾田永年私財法が出される。794年に、平安京に都が移ったなどと細かい年号まで覚えて何の役に立つのか。年号をいつ使うのか。いつか使うとは思えない。また、普段使わない漢字やその読み方を覚えて意味があるとは思えない。計算練習をたくさんして意味があろうか。凝固点や融点などの言葉を覚えて意味はないような気がしてくる。それぞれ漢字辞典、電卓、辞書で調べれば済む話ではないのか。それをわざわざ頭に入れる必要性があるとは考えられない。わざわざ無駄なことを覚えると本当に必要なものが覚えられなくなってしまう。
第二の理由は時間が無くなるからだ。小テスト、中間、期末の前には、夜遅くまでおきて、朝早く起きる。そうしないと点が取れない。だが、このようなことをして寝不足になって授業を受けられなくなったらいけないし、そのせいで体調を崩してしまうかもしれない。こんなことの方が、ただの暗記をするだけよりもよっぽどか大切なのではないかと思う。また、テストの形式を、暗記ではなく、考えればわかるような問題にすれば、授業中にも、暗記するときよりもだいたいの流れのようなことが分かってきて、それに共通することが自然に頭に入って来るのではないか、また、いまの「学力」というのは“学力”ではなく、“記憶力”のことを指しているのではないかと思うが、こうすると、本当の“学力”をテストによって測ることができるようになると思う。
確かに、テストがないと自分の記憶力は知ることが出来ないが、家とは外から見るものではなく中に住むものであるという言葉もあるように、暗記だけをしていても、賢そうに見えるだけで実際には賢くならない。賢くなるためには暗記するのではなくその内容をまとめてみるなどの別の方法をとった方がいいのではないか。そうした方が絶対に効率よくたくさんのことを覚えられるようになると思う。今のようなテストをいくらしても、意味のない知識を覚えられるか、記憶力を鍛えられるかぐらいしかないはずだが、もっと自分で考えるように学習やテストを変えていった方がいいのではなかろうか。そうしたら、その知識を知らない時でも、今までのことを重ね合わせて考えたりできるようになるのではないか。