双方の気持ちを知ることから始まる助け合い
   中2 あかるら(akarura)  2025年7月3日

 ユージーンは障害者と自然に向き合う町だった。その生活は自分の力でできることが私をどれほど自由にするのかを教えた。傷つこうが、自分の責任で苦境に直面する、それをイギリスの作家ローズマリ・サトクリフは「傷づけられる権利」と呼んだ。これは障害者がすっと主張してきたものだった。



私達は障害を持つ人に手を差し伸べていくべきだ。私達の助けによって障害者であることがもたらすバリアを少しでも取り払うことができるからだ。小学生のとき、塾からの帰り道、横断歩道で待っていると、白状を手に点字ブロックの上を歩く視覚障害者がこちらに向かって歩いてきた。私はその人が横断歩道を渡るかどうかは分からなかったが、目の前にあった音響用押しボタンを押した。障害者に気付くと同時に自然とボタンを押すことができた自分自身に驚いたと共に、助け合うことは特別なことではないということを実感した瞬間だった。私達の行動の積み重ねによって障害から生まれる壁をなくすことができる。障害ではないが、私も利き手の腕の骨折が原因となり学校生活で困ったことがある。しかし周りの理解と協力によって乗り越えることができた。登校中に鞄を持ったり教科書運びを手伝ったりしてくれたのだ。特に同じクラスにいた足の骨折経験のある友人は彼女自身の苦労した体験をもとにアドバイスをくれ率先して助けてくれた。その言動の一つ一つは途方に暮れていた私を元気づけ、完治まで、落ち込むどころか、感謝の気持ちを持って過ごすことができた。現代では身体的なバリアだけでなく、第三者や社会から障害者への心のバリアが問題となっているが、私達の心掛けがこれらのバリアをなくし、平等な世の中を作るのだと思う。



 しかし、自らの力でやり遂げようとする意思を尊重することも大切だ。障害者であっても私達と同じように自立への思いがあるからだ。私は障害者という呼び名を「要支援者」に変えようと主張する新聞の投書を読んだことがある。それは訪問介護員からの意見で、「障(さわり)」に「害」では意味にも響きにも優しさがないという考えを述べていた。このアイディアには障害の有無に関わらず、多くの人からの意見が殺到した。しかし障害者の方々はこのアイディアに対して否定的だった。中には「障害者は常に支援を必要としていない」、「むしろ周りの人を助けることもある。」と反論する人もいた。確かに「要支援者」として支援を受け、頼ることのできる人や場所があることは安心感に繋がるだろう。しかし私達は、相手にとっての過剰な支援は、自立への気持ちを損なうリスクがあることを同時に考える必要があるのではないか。



 確かに弱者に手を差し伸べることも、自らやろうとする意思を尊重することも大切だ。 しかし最も大切なのは、相手の目線で考えることだ。「親切にしなさい。あなたが会う人はみんな、厳しい闘いをしているのだから」という哲学者プラトンの言葉がある。私達は完全に相手の考えを知ることはできない。しかし相手を思い、自分の今までの手助けに対する視野を超えて働きかけるとき、そこに初めて手助けの価値や双方の幸せが現れるのだ。今後困っている人を見かけた際には相手の様子をしっかりと見て必要としている助けを行っていきたい。