あいまいな言葉
   小5 わかば(akahime)  2025年7月4日

 日本人はよく『そこはなんとか』という。この言葉は一回断られてから使うことが多い。一回ノーと言われたのに、わざわざもう一度頼む。不思議なことにその言葉を使った後はたいていのことであれば引き受けてもらえる。外国にはこの言葉がないらしい。だから、これは日本だけの特色といえるかもしれない。



 私は、あまり友達や家族とショッピングへ行くことはない。友達といっても、特別に親しい人としか一緒に行くことはない。そのせいでお買い物に慣れていないためか、私は推しに弱い。店員さんがある商品のオススメをぺらぺらと説明し始められると、相手のペースに巻き込まれ、お店を出たときには、商品を持っている。残念ながら店員さんとと同じペースで話すことはハードルが高い。だから、いつも巻き込まれてしまうのだ。普段、私はそんなことがないように、ショッピングに関しては、他人の言っていることに耳を傾けず、自分がよさそうだと思うものを買っている。しかし、友達と行くとなるとそううまくはいかない。店員さんよりさらに断りにくくなってしまう。友達と前一緒にダイソーへ行ったことがある。その子はダイソーの商品についてとってもアツく、炎が出そうなほど力を込めて力説をしてくれた。でもそれは、有難迷惑というものだ。私はその商品があまり良いものだとは思えず、なんといえばいいのか分からない。私はその友達がだいぶ好きで、仲良しだったので、わざわざ関係を壊すようなことは言いにくい。そんなことを考えているうちに、いつの間にか私の口は

「たしかに・・・!結構役に立ちそう。」

と答えてしまっていた。すると友達の熱はさらにヒートアップしてきた。後悔したが、それも後の祭り。話を合わせているといつの間にかその商品を買うことになってしまった。



 まるで商品や店員さんはスライムみたいだ。そして、買う側の私たちはボール。ボールが少し興味を持ち、スライムへ飛び込むと、スライムがボールにまとわりつく。ボールは死に物狂いで奮闘するが、効果は無く、やっとスライムを脱出したころには、スライムのべたべたが体にくっついている。とはいえ、ここまで店員さんを悪く言ってきたが、困ったときや、私たちの暮らしが成り立っているのは店員さんのおかげだということは忘れてはならない。失敗してしまったときには友達に『そこをなんとか』と頼み込み、助けてもらうのも毎度のことだ。人はだれでも、人を喜ばせようとする習性があるらしい。人が困っているのを無視すると、心の中の良心がちくりと痛むのだろう。その結果イエスは言いやすいのに、ノーがなかなか言えなくなる。

 

 英語で断るときには、文の初めにノーをつける。でも、日本人の場合は、その前にたらたらと申し訳ないと思っていることや、断る理由を述べてから、ノーではなく『ごめんなさい』という。言葉にも日本人の割り切れない性格が、出るのかもしれない。英語と日本語で表現がだいぶ違うように、文化にも違う点があるかもしれないと思い、イスラムについて調べてみた。その時に目にとまったのがモスクだ。モスクは日本で言う寺のようなものだが、日本と比べ圧倒的に派手だ。内部には白い場所はあるが、そこには模様が必ずあり、『空白』とはいいがたい。天井にはタイルでできた飾りがある。青や緑、赤や黄色等の派手な色で作られており、日本人の私から見るとあまり神聖さを感じられなかった。でも、空白を作らないということにはっきりとしたノーという意志を感じた。



 母に『そこをなんとか』という言葉をいつ使うか聞いてみた。すると、仕事が遅れたときや、私が病気の時に、病院がもう閉まっていてもその言葉を使い、お医者さんに診てもらっていたらしい。まるで、『そこをなんとか』は、魔法の言葉のようだと思った。けれど、お母さんがいうには違うそうで、そのせいで、相手を残業させたり、必要以上の労力を使わせてしまったりするそうだ。実際は『そこをなんとか』は、相手の良心に漬け込む悪魔の言葉だ。

 

 日本人の言葉はあまり直接的ではなく、オブラートに包んである。しかし、相手を傷つけてしまわないために使った物言いが、逆に自分の危険になったり、他の人を大変にさせてしまうかもしれないということが分かった。でも、私はいやなことにはノーというけれど、なるべく人にやさしくしていたいから、その場に応じて判断したいと思った。