清書変わりゆく社会と親子のかたち
   中1 ジュンノスケ(akasiyu)  2025年7月4日

現代社会では人間関係の多くが偶然に左右されるが、親子関係だけは例外で選ぶことができない特別な関係である。かつては親と子が同じような経験を共有し、親は自身の体験をもとに自然に子育てができた。しかし現代では、社会の変化により親と子の経験が大きく異なり、親は自身の体験ではなく育児書などに頼って子育てを行うようになった。この世代間の経験の断絶が親子の間に深い溝を生み、かつての安定した関係が崩れ、緊張を伴うものとなってきている。

この文章を読んで僕は、親子の断絶を減らしつつも、社会の進歩に適応することがよいと思った。なぜなら、



第一の理由として、親子本来の要素が失われてしまうはよくないと思ったからだ。

僕の思う親子本来の要素とは、親が、これまでの経験をもとに子供に知恵を教えて、子供の生活面の知能を鍛える。そういったものだと思う。しかし、現代では社会の進歩によって、親が子供のころにはなかったものが発明されて、子供たちがどんどん新しい知能を蓄えて親に教えることもある。また、その影響で親との関わり特に親子の会話が減ったり、すれ違いが起きたりする。などがこれまでよりも少なくなって、先に述べたような親子本来の要素が失われているように感じる。僕の家庭は、そのようなことは一切見られないので、詳しいことはわからない。しかし、学校にいるほかの人を見れば、人の話しているときに話していたり、落ち着かなかったり、ほかのことをしていたり、親から教わっていないということが一目瞭然である。もちろん教えているが聞かない人もいるだろうが親が口酸っぱく言っているはずだから、結局は親子本来の要素が失われそうになっていると感じている。



第二の理由として、適応力がないと時代に置いて行かれるからだ。

これは、今読んでいる「竜馬がゆく」からもよく感じられる。江戸時代末期にいた武市半兵衛は、土佐藩丸ごと尊王攘夷藩にしようとした。主人公の竜馬は、できないと踏んで参加しなかったが実際にもそうだった。計画に失敗して、仲間が減っていってもずっと同じ意見を持ち続けたことによって、社会の進歩に適応できず、時代に置いて行かれて藩主に処刑された。歴史では彼らがいないと成し遂げられなかった重要人物の暗殺などもあるが、時代についていけなくなった具体例としてはいい具体例だと僕は思う。

現代の社会において時代に置いて行かれることはそうそうないが、クラスで一人になる日が多くなったりしたときは小さな規模であっても時代に置いて行かれているのかもしれない。ここでは、時代というより、「学校のクラスメイトの世論」に置いて行かれるといった方がよいかもしれない。



このように、僕は、親子の断絶を減らしつつも、「社会の進歩に適応すること」という持論を展開してきたが、反対の意見もあるだろう。親子の関係は、進化する時代に伴って新しい親子の関係を模索するべきだ。と思っているひともいるだろう。

しかし、「脱皮しない蛇は滅びる」といった名言があるように、親子ともに時代に適応していかないと滅びることはないが問題に直面した厳しい家庭になるだろう。そんな家庭にならないためには、親子の断絶を減らしてゆくのがよいと思う。例えば、夕食や家族団らんの時間を使って積極的に会話をするなどである。親子の断絶がなくなればかかわりが増えて、温かい家庭になるだろう。すぐに問題をなくすのは難しいかもしれないが少しずつ距離を縮めればきっと断絶は減っていく。