そこを何とか
   小5 あきはや(akihaya)  2025年7月4日

 「そこをなんとか」と言う言い方は極めてあいまいである。「そこ」とは、何を指すのか。「何とか」とはどういうことなのか。我々はそれを「義理と人情」のせいにするが、もともと義理と人情とは、正反対の概念なのである。「義理」とは、正当な理のことであり、「人情」とは、その都市を解きほぐす上を意味する。このように正反対のものを一緒に折衷して、日本人はそこに独特の判断領域を設定するのだ。それは別言すれば「情状酌量」と言っても良い。けれども、日本人はこれこそが人情、すなわち最も人間的な対応とみなすのだ。実際「そこをなんとか」と言う表現の中には、日本人の物の考え方が実によく現れている。その考え方とは全ては完全ではないと言うことだ。そこで頼む方も頼まれる方もいくばくかの部分が必ず保留されていることを前提に話し合う。日本の絵画の特質に「余白」の美と言うのがある。それに対して、イスラムの芸術は全く逆で、空白への恐怖とも思えるほどびっしりと、空間を埋め尽くすモスクの剣乱に至る装飾にそれがよく現れている。もともと砂漠の民であるアラブ人は、決して妥協の余地を認めない、それがこうした芸術の性格にも表現されているのではないだろうか。ところで、日本人の好む「余白」だが、これは言うまでもなく可能性を維持する。画家はそこに何かを描こうと思えば、いくらでも描き出すことができるのだ。しかし彼は描かない。描かないことによって、鑑賞者にその部分を預ける。「余白」は、画家と鑑賞者の共有の空間なのである。そして「余白」をそれぞれが想像によってどのように埋めるか等の作品は、作者と鑑賞者、双方の「せめぎ合い」にかかっている。といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の芸術もその価値を決められるわけである。今まで書いた話に似ていることがある。それは外国人の友達がいて、外で遊んでいた外国の友達から滑り台の事は何と言うんですかと聞かれて、その時僕は英語がしゃべれなくて、シンプルにカチカチになっていた。それでちょっとだけ友達がしょんぼりしていた。それが英会話を始める気になったきっかけを作ってくれた。ありがとうあと目上の人や年上の人には話しにくかった。僕にはこんな経験があった。それは先生に怒られたとき僕は思った。僕ら生徒は、先生の操り人形でもないし、奴隷でもないと思ったのだ。この文章に関することだ。ナンをください。絶対だめそこをなんとか。僕は葛飾北斎の絵を見て思ったことがあった。なぜかその絵を見た途端、心が奪われました。この絵を見て国によって考え方の傾向が違うことがわかったし、この作文を書いて思ったのがイエスはノーも少し入っていて、ノーはイエスも少し入っている。日本は独特な国だなぁと改めて思った。