便利に立ち向かって生きていく
中3 あうさの(ausano)
2025年8月1日
最近では火との対話に代わり、電子釜や電子レンジが現れている。原初の火のもつカリスマ性を骨抜きにし、今や無数の人工的な火の代替物を作り出してしまったのである。これはブラックボックスとして、生活の隅々にまで侵入し始めている。原初の火は個人レベルで対処することができるが、現在の火は柔順なしもべであると同時に個人の知らぬところで暴発するかもしれない常に危険が伴うものと化してしまっているのである。
私は、便利さに流されることなく、生きるための知識や知恵を自らの身をもって習得していきたい。
そのための方法としては第一に、便利では補えないものに気づくことだ。
手紙はもらって悲しくなることはないだろう。誰でも手紙をもらうことは嬉しいことだと思っている。手紙を書くことは手間がかかってしまうから、パソコンで打ちます。という人も少なからずいるだろう。しかし、私は手紙を渡すときは必ず手書きで渡す。なぜなら、字の大小、丁寧さ、など手書きでしかできない伝え方を利用することができるからだ。文字の大きさは均一よりも、特に伝えたいところは少し大きくしたり、気持ちがこもるからこその丁寧さを見せることができるのは手書きでしかできないと思う。習字を習っている人だったら、フォントで全てを綺麗に見せるよりも、自分が書いた字で綺麗に見せた方がいいと思う。手書きで手紙を書く事には便利さだけでは補うことのできない部分がたくさんある。便利さに頼りすぎることがいけない理由の一つだろう。
第二の方法としては、便利の良さではなく不便の良さを知ることである。
人間の生涯は物事を学び続ける果てしない旅である。この世に生まれた瞬間よりも前の母親の胎内ですでに学習は始まっているという。学ぶエネルギーを実感するためにも、人間は、いつまでも学び続ける人生を送るのである。人間が味わう充足感や感動の大半は、ものを学ぶことから生まれるのではなかろうか。地球上にはまだ浪費文明に侵されず昔ながらの素朴な生活を営んでいるところがいくつもある。そのうちの一つがオーストラリアの原住民、アボリジニだろう。アボリジニの一人が東京に来た時ビルの自動ドアに驚き、「なんでこんなものが必要なのか。ドアなど手で開ければいいではないか」と言ったという。ドアを開けるという動作も人間が学んだ動作である。確かに、便利さは人間が学んだことを活かすという場においてはいらないことなのかもしれない。もし、自動ドアがなかったら不便だと思うひともいるだろう。しかし、人間の充足感や感動の大半はものを学ぶことから生まれ、その学びを活かすことで倍になるのだと思った。
確かに、便利さは人類の発展の証であり、それを隠すことは烏滸がましいことかもしれない。しかし、「シンプルであることは、複雑であることよりも難しい」という名言があるように、便利で複雑な機能に頼るのではなく、本当に必要なものを深い知恵と判断力をふんだんに使って学んでいくべきだと思う。